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凡庸雑記「音楽」
Adoの歌を聴いていると、不思議な気分になる。素直に、素敵だとか、上手いとか、聴きやすいとか、なぜか言い難いところがある。
もちろん、僕の審美眼の足りなさゆえの戸惑いで、世の中の評価の通り、稀代の歌うたいなのは違いない。
でも、天才ゆえの、整えられていない荒削さがどうにも気になる。
そう感じながらも、不思議なのが、気がつけば聴いてしまう。ユーチューブのライブ映像を何度も何度も。
どうしてだろうか、聴きやすくて、整えられた歌い手が、今の世の中とても多い。ほんとうに多くなった。だれもが、納得する歌声だ。
だけど、彼らとは違う彼女の歌は、声は。
歌の上手下手を超えた世界が、彼女の歌にはあるのかもしれない。そう感じる。
彼女のライブを聴いていて、ある人の音楽が頭の中で浮かんできた。それはなにかと、誰かというと、見事に全く関係ないのだけど、フルベン、彼が指揮した交響曲。
正確に表すと、稀代の指揮者フルトベングラーが指揮したベートーベンの交響曲。大指揮者と誉高い彼の音楽は、間違いなく名演の部類に血がない。きっと、たぶん。(カラヤンは嫌ってたみたいだけど。)
忠実に洗練された、音楽を奏でる、現代の指揮に比べると、彼は荒削りで身勝手で、自分の中身の才能を真摯に音楽にのせる。奏でる。
取り繕わないから、奔放で躍動感があり、基本から一本ずれているから美しい。こんな演奏はもう出来ない。許されない。らしい?そうじゃないかも?
離れがたい魅力が音楽の底から湧き上がり、何かふいに、無性に聴きたくなる。魂の音楽とはこうゆうものなんだろう。身勝手な思いつきだから、過ちかもしれないが。
Adoの歌を聴いていたら、すっきりとしないのに、惹きつけられて涙出るほど感動してしまうから。こんな、場違いなとんでも話をしてしまった。
それではあしからず。