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奴隷となる

昨日教会で読んだ箇所があるので、まず、共有したいなと思います。

私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。より多くの人を得るためです。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法の下にある人には、私自身はそうではありませんが、律法の下にある人のようになりました。律法の下にある人を得るためです。私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にあるのですが、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人には、弱い人になりました。弱い人を得るためです。すべての人に、すべてのものとなりました。ともかく、何人かでも救うためです。福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ(聖書協会共同訳)

福音、というのは良い知らせという意味があるそうです。
このコリントの信徒への手紙をかいたパウロという人は、もともとキリスト教徒を迫害していた人ですが、ある事件をきっかけに急にキリスト教をギリシヤ世界に広げたきっかけを作りました。そんなパウロという名前を僕も教会で幼いときにもらって、英語圏でもよくつかわれるポールという名前もしばしば使っています。最近では、ポールポールと気軽に声かけてくれる人も増えてきて、なんだかビートルズの一員になった気分です(大げさ)。

「良い知らせ」を伝えるときの姿勢がこの聖書の箇所にヒントが書かれているなと思ったのです。

「良い知らせ」を知っている人はとかく上から目線になりがちな気がしませんか?僕なんかは、儲け話(良い話?)みたいな話があると、ホイホイ聞いてしまうことは否定できません。

最近は、例えば会社経営についてのアドバイス、どうでしょう?僕も人事の分野でコンサルティングをしていますが、在り方を振り返ってしまいました。
「いや、そんなことやってたってだめでしょう。」
なんて、言いながら結局最適な方法から遠のいてしまったりすることもあります。

最近だと、家族の病気のこともあり、
にわかに、「良い話」として医療情報を伝えてくれる方もいらっしゃいます。
だけどね。。。この医療情報とてもきついです。
真剣に考えながら、自分の中でできるだけの解をもとめ、そしてまだ体験したことのない世界を試行錯誤しているときに、新薬を勧められたり、高額の医療器具を勧められたりしても、逆に苦しいときもあります。
ちょっと辛いな。そういうときは。

さて、冒頭の文章。福音という言葉は良い知らせに代えて、太字の部分をちょっと大切な人がいるコミュニティに置き換えてみて、もう一度読んでみてもらませんでしょうか。
奴隷になるという言葉は、すごいショックなたとえ話ですが、
何かを伝えたいときには、相手の立場になりきろう、なりきってしまおう。ということが大事なのかとおもいます。

「良い知らせ」を伝えたいあまりに熱意が空回りしちゃうこと。僕もあります。僕は特に言葉が少ない。イメージだけが肥大している。

昨日、友人に事業の企画書を見てもらったのですがアドバイスをくれました。「話に興味をもってもらえないと、大切なお話をしていても心が離れちゃうんですよ。」と教えてくださいました。

その入り口は相手に合わすこと。
彼は、大企業のゲーム会社で何百億をかけてプロモーションをしていた経験もありますが、言ってくれたことはシンプルです。
まずは、相手がだれなのか。その相手にわかることから。

皆さんがもっている「良い知らせ」を大切な人に伝えるヒントになればとおもいました。

といいつつ鎖に繋がれるような奴隷は嫌だな。心が軽やかな自由な意思をもっていたいものです。

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