非常識な神
聖書箇所
9/1 マルコによる福音書 7:1-8, 14-15, 20-23
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。 『この民は口先ではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、 むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
…それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
証: 非常識な神
最初にこれを読んだ時に思ったのは手は洗えば?でした笑
ズボラな僕でもコロナや女子から教育されて手洗いをするようになりました。
話はズレてきましたが勿論ここでの手を洗うというのは宗教的な意味で語られています。日本でも神社に行くと手水屋、手を洗う所がありますよね、あれと似たような感じです。少し説明すると当時イエス様が怒ってた二つのグループがありました。ここに出てくるパリサイ派ともう一つサドカイ派というグループでした。パリサイ派は学者で理想主義、サドカイ派はお金持ちで権力となあなあでした。そんななかでパリサイ派はルールを守れ!と庶民たちに訴えかけていたんですね。
そこでイエスは怒ります。回りくどい怒り方ですが、要は自分達のルールを神様の名前で押し付けて、内面がおきざりじゃないか!ということですね。
ここまで話して、僕は岐路に立たされました。説教として聖書の解説を続けるか、証として僕の信じる神の話をするかです。以前先生からあんまり他の教会でしない方が良いよと言われた証ですが、幸か不幸かここは母教会なのでここからは証をしたいと思います。
さてイエスキリストと聞いてどんなイメージを持つでしょうか。怒らず皆に優しい愛の神様でしょうか?
違いますよね、イエスはパリサイ派にブチキレています。誰にでも優しい人は誰にも優しくない人です。イエスはそのような方ではありませんでした。
むしろイエスは誰よりもこの世の現実と戦い続けました。そしてその結果最後にはこの十字架にかかって処刑されてしまいます。イエスは弱い人の為に権力や金持ちや特権階級と戦い、処刑され、世に勝ちました(ヨハ16:33)。
愛は戦うことで、死んだのに勝ったのか。非常識ですよね。しかしそこに意味があります。
もし僕達に分かりやすいものだとしたらそれは今日の聖書に出てきたように"昔の人の言い伝え"言い換えれば常識やマナーなど人間の尺度だからです。キリストは僕達を人間社会が見るように見ません。学歴、職業、家柄、お金があるかどうか、日本人か韓国人か、男か女か、健常者といわれるか、障害があるか、異性愛者か同性愛者か、顔が綺麗か、身長が高いか。神にはそんな事は関係ありません。
イエスは非常識だからこそ貧しい人や恵まれない人や病気や障害のある人に救いを伝えられました。常識に従っていたら近づかない人々と非常識だからこそイエスは共におられました。イエスは人をバイアスでみない。
そして愛だからこそイエスは人間を家柄や常識で判断する人々に怒りを露にしました。
口ではこう言ってますが僕自身も平等に人を愛することなんて出来ません。だからこそ僕には神が居るのです。無理だと諦めそうな時にそれでも愛を思い出させてくれる神が。愛せなかった時にそれでも愛して下さる神が。
神は人間の尺度で人を見ません。沢山愛した方が素晴らしいというのは僕達の尺度かもしれません。神は私達の外側にペタペタと貼り付けられたラベルやレッテルではなく内面を見ます。だからこそ僕はまず沢山愛するのではなく一つ一つ1人1人を深く愛する事から始めようと思います。