セナの背後を走っていたミハエル・シューマッハのオンボード映像を見ると、左コーナリング中に右へよれた。 コーナリング中にまるで逆ハンドルするように右へ行った。 この映像を見た時、完全に何かに引っ張られるように不自然に右へ行っている。 これはマシンでもセナ自身のトラブルでなく、悪魔による力が働いたと見る。 左コーナリング中にそれとは逆に突如向かうマシン。 残念だがこれは悪魔のチカラが働いた。 何故セナに魔の力が襲ったかと言えば、セナが悪魔に魂を売ったからである。 世
天中殺時は気張っても成果、結果は実らない。 だからどんどんやる気が減る。 世の現実は行動してなんぼの世界。 しかし、行動に起こせば起こすほど結果はついて来ない。 こんな事が初めから分かっているのに、やらなければならない事象になる。 叩いても叩いても埃一つでないのに叩かなければならない。 とにかく矛盾、ギャップ、ジレンマだ。 まあ、この差にどう向き合うかがいわばテストなんだろうけど、人生の中間テストみたいな感じかな・・ 天中殺は人生の中間テスト。 現実と理想の狭
仕事は会社のためにやるではない。 自分がその会社に入って社会に貢献するという言い方ならそうである。 だから、仕事は会社のためでなく、社会のためにやるのだ。 会社は社会に貢献するためのツール、道具でしかない。 会社のために頑張ります、身を捧げますでは、お門違いである。 会社がいかにも偉いといスタンスで働くものを見ているなら、その会社は社会に貢献していない。 会社が見方を間違っている。 そういった会社で働く者は皆、会社に飼われている羊、奴隷だ。 この辺を間違えては
手応えない。 投げても打っても手応えない。 無反応。 リアクションがない。 投げた打ったものがどこに行ってるのか?そんな空虚感である。 こちらからのアクションがまるでブラックホール吸い込まれているような感じで、投げた打ったものが返って来ない。 壁に投げたボールが跳ね返ることなく壁に吸い込まれるように、反動がない。 世の原則は因果応報。 自分で投げた打ったもの事が自分に跳ね返ってくる。 でも、天中殺の時期にはそれがない。 作用反作用の法則が成り立っていない。
天中殺は肉体(身体)はあるけど、魂(精神)がない状態。 つまり、抜け殻になるわけ。 で、その抜け殻に入って思考操作するものがいる。 だから、本来の自分とはかけ離れた判断をする。 なので、今まで起こさなかったようなミスや過ちをする。 いってみれば、天中殺とは天誅なわけだから、天の代わりに罰を与えられる。 その罰が身体(肉体)を乗っ取って精神(魂)に揺さぶりを掛けてくる。 要するに憑依状態。 天中殺は天誅で、天の代わりに罰を与えられる。 その罰とは本来の自分では
世の中には光の面と影の面がある。 それは誰でも何処でも同じ。 人間の中には必ず表と裏の面がある。 社会、世間ではそれを長所、短所と表現する。 しかし、我々が知っている神ですら元々はそういった面があった。 表、光の面を陽とし、裏、影の面を陰とする。 それはすなわち、善の神と悪の神といえる。 元々は同一の神から善神と悪神に分かれた。それが陽と陰。 善神は龍神、悪神は蛇神である。 つまり、龍神が陽で、蛇神が陰である。 これら二つの神は元々は同一の神だった。 神
盲目:何かに夢中になり、理性の判断ができないこと。 理性:ものの分別をすること。 つまり、何かに夢中になり過ぎたことにより、理性を失うわけだ。 理性を失ったら動物と同じ。 人間は蛇から知恵を与えられた。 知恵は理性を司る。 最初の人間、アダムは知恵を与えられたことにより嘘をついた。 知恵をつけたことでものの分別が分かり、理性を司った。しかし、初期の人間は知恵を悪知恵に使った。 なので初期の人間から理性を失っているのである。 だから、それに続く私たちは理性を失
意識は意志氣と意思氣の二つがある。 意志氣は私たち人間に生まれる前から持っている精神(スピリット)、魂。 意思氣は人間に生まれてから持つ心、氣持ち。 言い換えれば、意志氣は潜在意識、意思氣は顕在意識ということ。 言ってみれば、意志氣は本来持っている念であり、意志氣はこの世の欲望から発する邪念なわけ。 邪念=意思氣 正念=意志氣 これを踏まえると、意思は顕在意識、意志は潜在意識ということ。 この世に生まれて欲により感情を持たされ意思(氣)が乱れる。 それを正す
人間生きていれば苦労は絶えない。 時間に縛られ、お金という価値を植え付けられ支配者は人々を身悶えさせる。 この世に生まれて来たのは良いけど、自由がない。 霊体の時には自由自在に出来たけど、肉体を持ったこの世界では自由が利かない。 ほんとに何もかも不自由で拘束だらけの世界だけど、私たちは皆そのような体験、経験をしたくてこの地球へやって来た。 不自由の中から生まれる尊敬と感謝、これを目指して人々は苦し紛れに欲望と快楽に溺れ毎日を生きている。 しかし、尊敬と感謝の念は欲望と
写真撮られるのが昔から嫌いなんだけど、この理由が何なのか考えてみた。 そもそも何故撮られるのが嫌いかっていうと、自分が思っている、想像している姿と違うからなのだが、そのギャップがなぜ発生するのかっていったら、おそらく自分に憑依してるものがいてその姿を写真を通して見ることで感じているから、自分の思っている姿と違うと認識し、毛嫌いするんじゃないかということ。心の中では特に機嫌が悪くないのにムスッとした表情に写っていたり、笑っているつもりが表情冷たかったり写るから、自分との思いに差
先に書かせてもらうが、これはあくまで自分自身の感覚でそう感じたからだが、ハッキリ言って私は悟った(覚醒した)と思っている。 その感覚から言えることは、この世で悟ってもなにも楽しみはないということに気付いた。 何故なら、悟るとはあらゆる欲を捨て去ることで心の安寧を保つことが出来るわけだが、これが出来た暁月には何も動けない自分が出来上がっていたことに気付き、何一つ楽しみがない状態となっていた。 でも何故楽しみがなくなってしまったのかっていったら、この世、この世界(地球)では
人はなぜ人間というのか。 人との間があるってこと。 人間は一人では生きていけない。 このことは若い時には感じにくいことかもしれない。 それは自分を守ってくれてる存在に気付きにくいからだ。若気の至りとはこういうこと。 若い時に一人で生きていけるなんて思いは私もあったけど、それは無知ゆえの愚かさだ。 人がこの世で一人で生きていけるなんて、今自分たちが食べてるものは誰がそこまで加工して運んだの?あなたが今いる場所に居られるのは誰のおかげ?あなたが今生きていられるのは酸素があるからで
全ては永遠ではない。これは人は移ろいやすいものということとは違う。 物事には流れが、順番と言おうか一連のサイクルがあって必ずある程度の区切りが出てくる。 この区切りの要因がどこにあるかと言えば、それは天体の運行によって万物の意識は変わっていくからだ。 天体の動きによって発生する磁気(電磁波)が我々の意識に変化をもたらす。 これを例えて言うと、地球に住む人間は月の満ち欠けによって大きな影響を受けている。 満月になれば、人は気が昂り攻撃性が増し、人々は事件事故が増える。また食欲が
なぜ思い通りにならないか。 それは人間というものは肉体でいるからである。 本来、私たちの意識、仮にこれを魂と呼びましょう。この意識、魂、所謂霊魂だけの状態だと思ったことはすぐに現実投影できます。 それは願えばすぐ叶うとか思った通りになるということです。 例えるなら空を飛ぼうと思ったら飛べるし、何かを目の前に出現させたりまた、消したり出来るのです。 言い換えるなら、意識、魂(霊魂)だけの状態では、私たちが奇術、魔術、マジックと呼ぶようなことが誰でも出来るというわけです。 なので
意識しなくても自然にそうなる。そうなってる。そういう方向になる。 何故なら体が意識より先に反応、感応するからである。 なので必要なことは特に意識を向けなくても自然とそうならざるを得ない方へ向かうのです。 だから、自由意志/意思がないと言われるんです。 私たちは生まれる前に人生計画を立てます。どのような環境でどの条件で生きるのかを自分で選ぶことになります。 そこまでは自由意志/意思があると言えるでしょう。 しかし、私たちは生まれて来る時に、自分で決めた人生計画の記憶を消され
魂の気持ちになって考えると、 何でも思ったことが自在に変えられる宇宙の世界では、 思うままにならないことがどういうことかを知覚できない。 そこに疑問を持った魂たちが思うままにならない世界とはどういうことなのかを知るために、わざわざ肉体というぬいぐるみを着て足かせ状態で時間と情報、お金や物、人などを使って制限をかけられている世界(地球)へやって来た。 当然、この世界(地球)では思いのままにならない。それを実感したくて生まれて来ているのだから…。という前提があって私たちは地球に