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Uひろし君を探して

もう何年だろうか、ネットでひろし君を検索しては、見つけることができない。苗字も一般的で、漢字では「広」なので苗字と繋げると駅名のようになってしまい、まったく手がかりなし。彼と最後に電話で話したのは、妹が亡くなった1997年、24年前になるだろうか。10月に妹が医療事故で亡くなった直後、彼に連絡したのだが繋がらず、しばらく後にようやく電話が通じて話をしたのが最後。話といっても、こちらから一方的に話しても、彼はほとんど喋ることなく、すぐに電話は切れてしまった。

ひろし君は、僕と同じ1964年生まれ、たしか7月生まれだったのではないだろうか。最初に出会ったのは1978年、仙台の五城中学校2年生の時だ。僕が8月に秋田から先に転校してきたのだが、彼は10月に青森から転校してきて、同じクラスになった。同じ転校生同士というのもあったのか、仲良くなった。彼はバスケットボール部で運動神経も良かったが、ギターもとても上手で、さらにドラムも上手で、彼の家に遊びにいったら部屋にドラムセットがあり驚いた。お父さんは地方銀行の幹部で、お姉さんが居て、確か岩手大学を卒業されたと思った。 

中学3年になってクラスが別々になってもよく遊んでいた。僕がブラスバンドを大会終了後に引退して、彼の家で勉強すると行って遊びに行ったりもした。また、彼は色々な音楽をたくさん知っていて、Led Zeppelinも教えてくれて、名曲「天国への階段」をリコーダーで吹いてくれと頼まれ、彼のギターに合わせて吹いて、宅録したこともあった。そう、文化祭でブラスバンドのコンサートで、ドラムだけ彼に叩いてもらったこともあったような気がする。驚いたのが、技術の時間の課題で、彼がドラムを叩く人形を上手に作り、すげーな、と思った。

高校は別々、僕は仙台三高、彼は仙台二高、そう以前にnoteに書いたOS君と同じ高校なので別々に。高校に入ってからはほとんど付き合うこともなかったのだが、一度だけ彼が急に遊びに来たことがあったのだが、髭を蓄え(まだ高校生ですが)、サングラスもしていたので、最初家に来た時、私の母親も分からなくてビックリしていた。なんか急に思い立ったのか、近くに用事があったのかわからないけど、久しぶりに会ったことが1度あった。

高校卒業後、僕は浪人して、地元の文理予備校に入ったのだが、そこでまた、ひろし君と同じクラスになり再会した。その時のひろし君は、髭もなくなり、昔のままだった。写真(左)は、浪人時代のものだと思う。また同じ予備校にOS君もいたので、3人でもよく遊び、運動不足解消だとか理由つくり、土日には、僕の家の近くのテニスコートで、軟式テニスもした。そこは全く知らない会社のテニスコートで、土日、勝手に入って遊んでいた、今じゃ、考えられない。彼と同じように勉強、同じように遊んでいたつもりだったが、結局、彼の方はしっかり勉強もしていて明治大学商学部に入学、僕は2浪目に入った。

僕は2浪目は予備校も行かず、仙台の家で勉強していた。ところが、僕の父親が東京に転勤になり8月に杉並の社宅に引っ越した。社宅とはいっても一戸建てだった。おまけに、その家のすぐ近くに当時まだ小学生のゴクミが住んでいたので、近所で彼女を見かけたこともあったな。さて、7月に東京に引っ越したら、彼の実家も世田谷で自転車でも行ける距離だったので、浪人でありながら、彼と夏休みに葉山にあった祖父の家に泳ぎに行ったりとしていた。

翌春、僕も國學院大学に入学、僕は合唱団に入り、サークル活動に夢中になり、ひろし君とは疎遠になってきた。でもそれでも時々は会っていたのかな。彼は、大学卒業後にクラウン・リーシングという会社に就職、お父さんも青森に戻ったので、一人暮らしを始めた。確か最初は松戸、その後は世田谷に引っ越した。僕はというと、大学卒業後にレナウンという会社に就職した。お互い社会人になってからは、彼とはまたよく遊んだ。今度は硬式テニスを二人でよくやった。社会人でまだ結婚もしていないので、それなりにお金もあり、土日に都内や葉山の室内テニスコートを予約して、そこで二人でプレイした。彼は社会人になって2年目ぐらいには車を購入、それも当時出たばかりのマツダユーノスロードスター、2シーター。シルバーでオープンカーね。今、思い出してもバブルな時代が、僕にもあったと思う。金曜日の夜、彼と待ち合わせてオープンカーにのって、葉山にあるテニスコートまで行き、そこで2時間テニスして。そこから彼の運転で、隣の僕はビール飲みながら、横浜横須賀道路→第三京浜をオープンカーでぶっ飛ばして、帰ってくるんだから。帰りに彼の家に泊めてもらったこともあったな。僕の家族も彼のことはよく知っていて、うちの父親と俺と彼とで箱根に旅行に行ったこともあったし、何故かうちの父親が、彼が就職してまもなく彼のオフィスを訪ねたこともあった。今思えば、なんで息子の友人の勤め先を訪ねたりしたんだろう。今度、機会があれば聞いてみようかな。

僕が1991年に結婚してからも、しばらくは一緒に遊んだ。子供ができるまでは、テニスもしたりしていたな。でも91年に長男が生まれてからは、僕も一人で遊ぶ時間もお金もなく、彼は独身でテニス以外に、バイクも乗り、スキューバダイングで沖縄行ったり、海外も行ったりと優雅な生活を送っていた。たまに羨ましいと思うこともあった。

1997年は僕にとっても、ひろし君にとっても激動というか、大きな年だった。その年の4月、彼の勤め先であるクラウン・リーシングが当時、戦後最大の負債を抱えて倒産した。僕は、その年の4月に外資系アパレルメーカーに転職して、7月には長女が誕生した。ところが10月、妹が急逝して、ジェットコースターのような年だった。ひろし君は、僕の妹のことを小学校の頃から知っていて、彼女が大学に入ってからも、サークルでスキーに行く時に、車で一緒に送ってくれたりもした。好きだったん、だよな、ひろし君は妹のことが。でも、それだけはやめてくれ、と僕がひろし君に言ったので、彼は、妹に直接何も言わなかった、と思う。妹は僕が結婚した翌年1992年に結婚したのだが、ひろし君も結婚式に来てくれた。その妹が亡くなったので、ひろし君にも連絡したのだが連絡がつかず、しばらくたったあとようやく繋がった。そのあとに僕の両親宛にひろし君から手紙が届き、僕の両親はそのことをすごく嬉しくというか、大事に思っていた。

それ以来、24年経つが、ひろし君には会えない。なんで会いたいのか、ただ、ただ、会いたいと思うだけ。でも、ひろし君は、もう僕には会いたくはないのかも、しれない。ひょっとして会えない所にいるのかも、しれない。

OS君、妹にはもう会えないが、もしひろし君が生きているなら、いつか会いたい。覚えていることはいっぱいあるんだから、検索すれば見つかると、思ったんだが、彼の56年間の生きた跡が見つからない。


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