ウィリアム・ブレイク『他の人の苦しみ』
ウィリアム・ブレイク『他の人の苦しみ』という詩に感動しました。
他の人の苦しみをみて
悲しまずにはいられようか!
他の人の嘆きをみて
救わずにはいられようか!
他の人の涙をみて
悲しみを分かたずにいられようか!
自分の子の泣くのをみて
父親は平気でいられようか!
幼い子がおびえているのに
母親は座っていられようか?
いいえ そんなことはない!
そんなことはありえない!
世界に微笑み給う神が
ミソサザイの悲痛を聞き
小さな鳥の嘆きを聞き
子どもが痛みに耐えるのを聞いて
巣の傍に近づいて
ミソサザイを胸に抱き
ゆりかごの傍に近づいて
子どもの痛みを分かち合い
夜昼ふたり寄り添って
一緒に泣かないでいられようか?
いいえ そんなことはない!
そんなことはありえない!
神は喜びを与え給う
神は小さな子どもになり給う
神は苦悩の人とならせ給う
神は悲痛を分かち給う
深くため息をつきながら
神はいまさずと思うなかれ
辛い涙に咽びながら
神がいまさずと思うなかれ
神は喜びをもたらし給い
我らの苦悩を払い給う
我らの苦悩が消え失せるまで
我らとともにあらせ給う
最近、初めて詩の良さがわかりました。情景を詠んでいるものなどにあまり関心がなくて積極的に調べたりしていませんでしたが、偶然上記のような詩を見つけて、感情の動きがよくわかる詩ってめちゃくちゃいいなと思いました。
歌詞も好きだし、思えばわたしとかわたしと気が合う人とかはみんな言葉遊びが好きで、造語を作り出したり、変な言い回しの言葉を気に入ったり、ギャグ(?)を作ったりしていました。それと同じ系統のことなのかもしれない。
この詩では、他者への思いやりと共感、神の愛が歌われています。
この世において他者への共感が尊いのは、人間には本来残酷な面が潜んでいるからだというのがブレイクの信念だった。人間とは本来救いがたい存在であるが、愛を通じて他者を救い、またそれを通して自らも救われる。その救いのうちにはいつも、神の姿がある。これがブレイクの主張しようとしたところなのだ。
神は喜びを与え給う
神は小さな子どもになり給う
神は苦悩の人とならせ給う
神は悲痛を分かち給う
という箇所を読んで、トルストイの『愛あるところに神あり』 が思い浮かびました。
あらすじは以下の通りです。
あらすじ
ある町にマルツィン・アフデェーイチという靴屋が住んでいた。彼の住む地下室の窓は往来に向いていたので、その窓からそこを通る人たちの靴がよく見えるのだった。マルツィンはこの町のほとんどの人の靴を修理したので、彼らが履いている靴を見ただけで自分の仕事に満足した。彼は注文を受けると、上等の素材を使い、手間賃も安く、期限には必ず仕上げる誠実な職人だったのである。
彼の妻は以前亡くなり、カピトーシカという子どもが残された。マルツィンは大切にこの子を育て、子どもは成長すると父の手助けをするようになったが、間もなくこの子は病気になり死んでしまった。マルツィンは嘆き悲しみ、神様に文句を言い、教会に行くこともやめてしまった。
そんなある日、マルツィンの所に長い間巡礼に出ていた老人が訪ねてきた。マルツィンは彼に自分の悲しみを訴え、何の望みもない自分は早く死にたいと言ったところ、老人は自分たちには神様の仕事をあれこれ言う権利はないこと、そして神様に命を頂いたのだから、神様のために生きなくてはならないと諭す。そして、こう勧めた。
「本が読めるなら、(聖書の)福音書を読みなさい。そこには神様のために生きるにはどうすればいいのかが書かれている」
そこでマルツィンは、聖書を買ってきて読み始めた。すると、読むごとに心が感謝で満ちあふれ、安らかになるのだった。彼の生活は変わった。この時からぴったりと酒をやめ、朝から仕事場に座って決まった時間働くと、ランプを手元に置き、聖書を読んで寝るのが習慣となった。
その晩もそうして聖書を読んでいたときだった。どこからか「マルツィン!」と名を呼ばれた。振り返って戸口の方を見たが誰もいない。彼は寝床に入り、横になった。すると、突然はっきりと声が聞こえた。「マルツィン! 明日往来を見ていなさい。わたしが行くから」。マルツィンは目を覚まし、椅子から立ち上がったが誰もいなかった。
翌朝早く起き、お祈りをしてから、窓際で仕事を始めたが、彼は往来の方ばかり見ていた。するとそこへ、隣家の商人の所に雇われているスパーヌイチという老人がやってきた。彼は雪をかく力もなく、疲れたようにたたずんでいた。マルツィンは彼を店に招き入れ、温まらせてやってから、お茶を何杯も飲ませてやるのだった。
また靴の修理を始めると、みすぼらしい身なりの女が子どもを抱いてやってきて、窓の所にたたずんでいるのが見えた。マルツィンは飛び出して行って彼女を店に招き入れると、温かいシチューとパンを食べさせてやる。その上、帰るときに20カペイカ銀貨を与え、袖なしの上着まで与えてしまったのだった。
それから、また窓の外を見ると、今度はリンゴの入ったかごを持った老婆が立ち止まるのが見えた。そのかごを置いた瞬間、ボロ着の男の子がやってきてそのリンゴを盗もうとした。怒った老婆は子どもを捕まえて殴ろうとした。あわてて駆け寄ったマルツィンは、老婆をなだめて言うのだった。聖書の中には莫大(ばくだい)な負債のある小作人が主人から赦(ゆる)してもらった話があるが、自分たちはお互いに赦し合わなくてはならないのではないか――と。すると老婆はすっかり優しくなり、男の子も素直に老婆の背負っていた袋を代わりに背負ってやり、2人は仲良く歩いて行くのだった。
それからマルツィンは仕事をし、その後店を閉めて、聖書を読もうと、昨夜革の切れ端をはさんでおいた所を開いた。しかし、どうしたわけか、別のページが開いてしまった。同時に、昨夜の夢がはっきりと思い出された。その時、彼は誰かが後ろに立っているような気配を感じた。そして、こんな声がしたのである。
「マルツィン! おまえにはわしが分からないのかね?」 彼は「誰だね?」と言った。「これがわしだよ」と声が言った。その時、暗い片隅からステパーヌイチが出てきてにっこり笑ったかと思うと消えてしまった。
「これもわしだよ」と、また声が言った。そして暗い片隅から赤ん坊を抱いた女が出てきた。そしてにっこりすると、消えてしまった。「これもわしだよ」と声が言った。すると、老婆とリンゴを手にした男の子が出てきて、にっこりしたかと思うと消えてしまった。
マルツィンは、十字を切り、眼鏡をかけて聖書を読み始めた。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。その時、マルツィンはまさしくこの日、彼のところに救世主が来られたことを知ったのだった。
ざっくり言うと、神が色んな人に姿を変えて登場して最後に全部わたしでした、やし、みんな(弱者など)にはやさしくすることが良い…みたいな内容だったと思います。そしてこれは聖書にもある内容だという(まあトルストイのこれらの民話は聖書の内容をわかりやすい形式にして広めたものなので当然ではあるけど)。
宗教やキリスト教は批判されることもあるけど、その教えが自然と備わっているおかげで他人にやさしくできる人もいるし、外国だと富裕層の人がキリスト教の精神で寄付したりもするし、純粋な教えだけをみると、めちゃくちゃいいことのように思える。最近近所の教会の青年会に行って、聖書について学んだが、それについてもまたいつか書こうと思います。
『他の人の苦しみ』というテーマは、たまたまわたしが最近考えている命題でした。最近めっちゃ思うところがありました。ごちゃごちゃしていてまとまらないけど、考えがまとまったらなんか書こうと思います。
会社以外の人との関わりやコミュニティ(?)で、いい感じの人たちを見ると、会社の人たちの俗っぽさもどうでも良くなってきたので良かったです。