NHKにようこそ 佐藤と岬に祝福を、そして私達に光を

もどかしさとやるせなさ

見終わって30分くらい経った。ただ今の自分には希望と同時に今のなんとなく可もなく不可もない順風満帆でもどかし過ぎる毎日を実感している。きっとプロジェクトは訪れないし、でも自分はあそこまで絶望的な愚かしい生活を暮らすこともないだろう。あの作品の中ではどこか佐藤が羨ましく見えた。しかし、それは私がバイトも大学も行ける“普通”の人間だからだ。佐藤にとってそれは自分が今から数学を勉強したり、就活の為にアニメ・マンガを断つのと同じくらいに厳しいものなのだ。だから自分も絶望的状態になれば岬ちゃんに会えたら最高だ。というのは恥ずかしいものである。今私がこの作品に教えてもらったものはなんだろう。それは多分、取り敢えずもどかしい時は飛び込んでしまうこと。縋りたいものには縋ってみるということ。そう思う。

佐藤の意地と岬の自己救済


何度も佐藤、岬ちゃんを抱き締めたい欲望に駆られないのか?とか、考えてしまう。これはつまり岬ちゃんを可愛いと思ってそれを行動に示してしまうということだ。それは傲慢である。佐藤は自分にその資格が無いという自負がある。だから当初あんな妄想をしていたし、デートの回とかも確実な恋心を抱いていた。自殺offを境に、まるで彼は気が無いような態度を取る。否、正確には10話のダークサイドにようこそ!の時の絶交宣言からである。佐藤は裏切られるのが怖かった。これは物語の最後まで引き摺ることになる。岬は後半は通い妻の如くご飯を持ってきてくれるが、そこにまた鮪かと不満を垂れる。素直に「いつもありがとう」なんて言葉は似合わない。甘えでありまた恐れを加速させるこのアンビバレントの感情については、佐藤は目の前の山崎との夢という物の下に封殺されていたのだろう。自分は彼女に甘えて良い人間ではない。だが、この生暖かい駄目駄目な日常を抜け出すのはかったるく、そして、怖い。だから彼は薄情な当たり方を終始、岬ちゃんに向ける。貴方はこれを間違ってると思うだろうか。しかし、佐藤はあの岬から飛び降りることが出来たのだ。あれは逃げなのか。私はあれを不健全で劇的な可能性だったと思う。佐藤は岬のために何かを成し遂げたかった。しかし、岬にとっては、佐藤にただ必要とされることが必要なことだった。しかしそれでは駄目なのだ。何故なら佐藤にとって、必要というものは決して岬と結ばれる上での必須要件ではなく、むしろ排除すべきものだった。怖かったのだ。しかし佐藤は自分の抱いていた恐れを、岬にぶつけてしまう。事実岬と佐藤は全く同じ恐れを抱いていた、そして岬は繋がるほうに走った。それが二枚目の契約書、それがプロジェクトの真の最終目標だったのだ。繋がり自分を彼に明け渡すことが彼と共に歩む、それが唯一の道だと思ったのだ。

「『佐藤達弘を甲、中原岬を乙とし、次の通り契約する。1、甲は乙を嫌いにならない。2、つまり甲は乙を好きになる。3、ずっと心変わりはしない。4、いつまでも心を変えない。5、寂しいときはいつも傍に居てくれる。6、といっても乙が寂しいのはいつものことなのでつまり甲はいつも傍にいる。7、そうすれば多分人生が良い方向に進む。8、苦しいことがなくなると思う。9、約束を破ったら罰金1000万円』」

NHKにようこそ!24話

中原岬「簡単なことだよ。私に優しくして。私も佐藤君に優しくするから。私佐藤君を助けるために一生懸命やってきたんだよ、佐藤君はもう、私にメロメロでしょ?」

NHKにようこそ!24話

正直アンニュイな雰囲気の中に醸し出される甘いこの契約書に私達は欲情せざるを得ないだろう。しかし佐藤はそれは許さなかった、虚しすぎると一言。二ツ目の契約書の破棄の段階では、社会的倫理観、自分の正義観だけでなく、怖かった。というのが一番だろう。結ばれたいのに、結ばれていくことを恐れる。帰宅後これを認めることを佐藤は駄目人間として認めることと解釈してる。それは、こんな人間が彼女を堂々と好きになるのは終わってる。てことだろう。だから彼女にこんな馬鹿げたことはやめてくれと言ったのだ。やがて佐藤は生存危機に陥る。仕送りもない絶望の中、岬の食事を夢に見るが、それは手に入らない。つまり岬を必要とするだけの自分は死んでしまう。ということだ。自分から生きなければ自分が死んでしまう。そうして彼は働き出す。それを岬は確認し、自殺を図る。つまり自分の必要が無くなったからである。もし佐藤があのとき死んだら、岬はどうしだろう。必要の証明に感じたのだろうか。それは信じたくない。多分だが彼女はその淵を待っていたのだろう。自分が彼がその際際に来るまで、家に天使のように舞い降りるタイミングを。私はそう思わないと辛い。だがしかし彼は働き始めてしまった。岬の仕掛けた自己救済は、ある意味救いがなかった。さて、自殺が始まる。


終わりゆく生死の極まりを迎えて


「誰か一人でも私を必要としてくれる人間がいてくれれば、2番目のお父さんが言ったことは嘘になります。あたしは生きていてもいいんです。でも、そのプロジェクトは失敗に終わりました。私は佐藤くんにすら必要とされてないんです。生きていてもしょうがありません」

NHKにようこそ!24話


佐藤はまだ迷っていた。しかしこの迷いは、裏切られる恐れよりも、自分は岬ちゃんに相応しいかどうかだった。これは大いなる前進だ。岬をただ必要とすること≒自分の生存にならない(更には裏切られて絶望する可能性)→岬の望みも叶わない。彼は岬の為に自分の生存を示せていない。彼はまだ岬の為に何もしていない。“意志”と“証明”はそこには無い。そして岬という女は、自分の命でもって彼にその証明の場を用意した。勿論岬はもう終わっていたので、全く希望も無いのだが。だがあの遺書は単に自殺かどうかの判断の為という配慮だけでなく、どこか佐藤を望んでいた。そうに違いない。何故ならあのとろろ汁の件は佐藤しか知らない話なのだから。(そもそもあの講義もどこか岬にとっての覚悟の用意だったのだろう)佐藤は遺書を確かめた後、お金が少ないこと分かってる癖に、と言う。この時点で二人は愛し合っていることがもう分かる。そしてついに“最後”が訪れる。佐藤は落ちていく岬を必死で抱き止め、岬ちゃんは悪くない、悪いのは陰謀だと諭す。存在しない敵を示す。そして、

佐藤達広「捨て身で特攻するしか無いんだ。君の命は俺が護る。さよなら岬ちゃん。今まで本当にありがとう。これからは健やかに生きてくれ。そして幸せな人生を送ってくれ。それが俺の最後の願いだ。」

NHKにようこそ!24話

愛する人を護るために戦えない現代の私達の幻想、ここに極まれる。やはり日本人は同仕様もないという気持ちになる。岬は飛び降りる佐藤と、母親を重ねたに違いない。私は、岬の母親の想いを佐藤があの瞬間に成仏へと導いたと思っている。岬にとって母親は絶対的な存在であったのだろう。母親から発して他の二人目の父も叔父夫妻も、私が不幸にしたと岬は本気で思っていた。それが彼女の不幸であった。それに命懸けにと立ち向かった男、それが佐藤だった。ところで、私は佐藤がベンチの彼女に好きだ。愛してる。と叫ぶも全く意味がないシーンが私は好きだ。

佐藤「俺には……岬ちゃんが必要なんだ。好きだ! 愛してる! 頼む、死なないでくれ」
岬「面白いこと言うねぇ、佐藤くん。でもダメだよ、死ぬんだから」

NHKにようこそ!24話

言葉というものの弱々しさを感じる。(自殺offのときもそうだが、先輩は運命が佐藤にあるかのようにしておきながら結局城ヶ崎と結婚する。心変わりというか、人の心は“複雑”で儚い。その儚さの描き具合もこの作品のポイントだと思う)だからこそ佐藤はあそこで自殺しなければならなかった。彼女に対する贖罪として、自分を殺さなければならなかった。彼は本当は岬ともっといたかったに違いない。しかし岬のいない世界では生きていけない。だから死ぬ?いや違う。言葉の重みを示すために命をかけるのだ。言葉に血を通わす為に命をそこに宿し肉体を断ち切るのだ。だから人間は愚かなのだが。岬は佐藤がもし死んだら追っただろうか。私は追うと思う。佐藤の声は届かないだろう。何故ならもう佐藤しかないのは岬ちゃんも同じだから。佐藤が世界から自分の為に何か言葉を残し消えたのならもう佐藤に会いに行くしかないのだ。しかしそうはならなかった。防止ネットが佐藤を救う。ここで私達は、社会の構造のもたらすセーフティが実は個人的な劇的瞬間をこうも左右し支えている事実に驚愕する。この作品は単なる絶望感にプラスした、恥ずかしさと他人の目という日本らしい生きづらさと、そこにある意気地の描き方が素晴らしいと思う。さて、やがて死に損なった二人は、岬の実家で一夜を明かす(勿論ここに“生への前進”は無かっただろう)。故郷とは此時に一番温もりを与えてくれるのだろう。

ここがあたしの部屋、中学3年まで使ってたんだ。家族以外でこの部屋に入ったの、佐藤くんが初めてだよ。

以下略

過去の辛い記憶もそこにあったとしても、そこは自分がいたという証明を自分の確かな記憶から得ることができる。そして岬の過去を巡る場所に、佐藤も共にいる。これが最後のシーンの重要なポイントなのだろう。

新しくて何も変わってない日常へ

ここにきて二人は新しい契約を結ぶ。

岬「会員はお互いの命を人質として差し出すんです。つまり、お前が死んだら俺も死ぬぞこら、ということです。そうすると、あたかも冷戦下の核保有国の睨み合いのごとく、死にたくても死ねなくなるんです」

以下略

この後の回想で佐藤は何も問題は変わっちゃいないと零しながら駄目だ駄目だと吐き捨てながら自分達は生きていく。いつまで持つか分からないができるとこまでやってやるさ、と回想しながら契約書にサインする。この無言で佐藤が何ら当たり前のようにサインするのが良い。特に大きな演出もなく、淡々とこのシーンは終わって、

岬「これで佐藤くんもあたしも、きっと大丈夫。N・H・Kに、ようこそ!」

の一言でエンディングに入る。この佐藤君も私もという表現、ここがやはり逃してはならないのだ。佐藤君はこれで大丈夫というわけではない。私もきっと大丈夫。なのだ。お互いの契約が、お互いを大丈夫なものにする。佐藤の言う通りこれが何か劇的に生存を変えていく訳ではない。しかし二人はここから良い人生、良い日常に歩みを進めていくつもりなのだ。命を掛け合った仲だ、私は絶対的にこの二人はともに苦難を乗り越え結ばれて往生を遂げ合うと信じる。お互い綱渡りなのに変わりはない、しかし二人は絶対生き抜いて幸せになる。そうでなければ、一体此の世をどう生きていけるのだろうか。

この作品と私達の接点

作品は平成真っ只中に誕生した、多少社会的な要素を含んだ作品と言える。作品の中のキャラは、テンプレート的な“現代的な問題”を一つ装備したキャラだ。しかし佐藤にとって、物語にとって彼等はいなくてはならない存在だった。特に先輩は陰謀という物語の核、山崎は佐藤という人物と物語の進行をリンクさせる(出掛けたりエロゲ造ったり)上で大切な人物だ。この作品はどこか個人的な不条理を陰謀として考えることにしていく。そして個人的な不条理は、社会的な問題とされるものと強く絡んでいる。アニメだけでも「ニート」「新興宗教」「オタク」「陰キャ」「女嫌い」「悪徳マルチ」「虐待」「自殺サークル」「いじめ」「精神病」「ネトゲ廃人」「トンデモ論」「田舎脱出」その他細かい描写を含めれば大量だろう。いわゆる現代社会が抱える問題というやつだ。この作品はニートに孤独で曰く付き少女が助けにくる。という構図だが、ここに私は愛と理想を覚える。我々は誰かを見下しながら、彼を救わんとすることがやがて愛を育むことを、アンニュイで俗物的な雰囲気を交えながら示そうとしている。佐藤の行動は生々しい程リアルだ。あれをクズと思うのならば、それはつまり結局は彼にとって見下してくる奴等という考え方は正しいということだ。彼が他人の視線を恐れ発狂するのは紛れもなく私達のせいであるということになる。岬は彼を見下していても、彼に救われている自分を知っていた。そしてそんな自分も彼もこのままではいけないと知っていた。というよりも、彼女は自分が不幸をもたらす存在であることが本気で嫌だったのだ。だから佐藤は救世主だった。佐藤を助けようとしたのだ。この倒錯的な感情は、人が人と比べる生き物であることを如実に示している。最終的に佐藤は命を捨てるという行動で彼女に愛を示す。それは岬にとっての佐藤も、佐藤にとっての岬もある種同じであったという意味だ。佐藤は岬亡き世に恐れがあったのだ。それは弱いが、岬にとってはどれほど嬉しかったことだろう。しかし佐藤が死んでしまっては岬は佐藤の命と引き換えに生を得たとしても、苦しい日々が待っている。そこで二人を救ったのは防止ネット、つまり“社会的問題”の対策であった。というところに私はどこか無機質で公的な存在が、実は私達を救っているという当然の事実を目の当たりにするのだ。あのシーンにどこか生きることを絶対正義とする、理想的な現代日本の救済が描かれていると感じたのだが、社会と結び付け過ぎだろうか。

山崎「ドラマには起承転結があって、感情の爆発があって完結があります。僕らの日常はいつまでもいつまでも薄らぼんやりした不安で満たされてるだけです」

21話


私達の元に岬は訪れるのか。分からない。しかし岬のようになることは出来るかもしれない。否、私達はあんな可愛い女の子ではない。非常に残酷だが、私達はそれでもこのアニメを信じて登って行かねばならない。何気なく泡のように思える他人の戸惑いや不安に安心感を覚えながら仕方なく助けてあげる。これで弱い自分の生きている意味を見つける。罵倒しあってる内は平和かもしれないが、これも悪くないだろう。

結局の所、問題は何一つ解決しちゃいない。俺たちはこれからも毎日、ダメだダメだと呟きながら生きていくんだろう。だけど、そう、いつまで持つかはわからないけど、できる限りはやってみるさ

24話

この言葉はこの時代の日本を表していると思う。今思うと、ニートだの引きこもりだの言われてきた若者が、踏ん張って世の中を造っている。インターネットを見ると、死に際の青春と若さを乗り越えて、今を生きる人を沢山見る。彼等のお陰で良くも悪くも私達は好きなものに忠実でいられるし、これも良くも悪くも痛みを分かり合う素振りが、どこかあるべき振る舞いとして定着していると思う。ただし私達を生きる世界は、別に解決に向かってる訳ではない。だがそれでもできる限りをやっていく。私はそれを結構頑張りたいと思った。アニメの伝言を果たすこと、これは私にとっての救済であり、どこか奉仕であるとも考えている。

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