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世界史漫才23:イングランド王ジョン編

 苦:今回はイングランドのジョン王(位1199~1216年)です。
 微:知ってる、知ってる。確か兄がモナ王だろ。
 苦:どんなボケだよ! それはロッテの安物アイスクリーム! プランタジネット朝第3代の王です。
 微:ああ、思い出した。この名前が付けられた王が以後は一人もいないため、○世が付かない奴だな。原田知世でも川崎麻世でも付いているのに。
 苦:その世は順番を示す記号じゃねえだろ!
 微:ごめんごめん。そうそう、遭難してアメリカで救助された王様だったな。
 苦:それはジョン万次郎こと中濱万次郎! プランタジネット朝の祖ヘンリ2世の末子です。ヘンリ2世が幼年のジョンにイングランドの領地を与えなかったことから欠地王と呼ばれ、また教皇インノケンティウス3世やフランス王フィリップ2世と争って、領地を大幅に失ったため失地王とも呼ばれます。
 微:なんか畑に使えない沼地とか干潟を集めたマニアみたいだな。
 苦:それは渡り鳥が過ごす湿地で、ラムサール条約で保護されている対象だよ! 彼の失地王のあだ名を理解するために、ここでイングランドとフランスとのややこしい関係をおさらいしておきます。
 微:湿地だから浚渫というかどぶさらいは大事だもんな。
 苦:湿地から離れろ! 事の発端は1066年ノルマンディー公ギョームのイングランド征服、歴史用語で言うところのノルマン=コンクェストです。
 微:バイユーのタペストリーに描かれているやつだな。高校生には教育上良くない部分が描かれていないとこだけ小さく切り取って資料集に出てくる。でもその時、本当にノルマン騎士が乗っていた馬って、ほんと雄ばかりだな。
 苦:余計な下ネタ入れるな! ノルマン系のフランス貴族だったギョームはイングランド王ウィリアム1世に即位しますが、依然としてフランスのカペー朝王権の封建臣下でもありました。そのため、別の国同士なのに一体化をしてしまうんです。
 微:ベトちゃんとドクちゃんみたいなもんか?
 苦:それは枯葉剤のダイオキシンによるシャム双生児症です! イングランドという別の王国の国王なのに、フランス王の臣下である上に、本拠地もフランスで、英語ではなくフランス語をしゃべるという訳のわからない事態が生まれたんです。
 微:要するに日本政府がアメリカ属国であることを認め、官僚公用語が英語の状態だと。
 苦:しかもノルマンディー公からするとイングランドは日本の北海道というか田舎の避暑地みたいなもんです。あくまで本拠地であり主たる収入はフランス側にありました。
 微:彼氏がいるけど、「恋人いません」「清純派です」と言ってるアイドル歌手みたいなもんだな。
 苦:話を戻すと、ウィリアム1世の血統が途絶えたため、イングランド王になる権利はフランスのアンジュー伯に移ります。これも血の繋がりの濃い順番からです。そのアンジュー家がイングランドではプランタジネット朝と呼ばれたわけです。
 微:リングではアントニオ猪木、参議院では猪木寛二を名乗ったようなもんか?
 苦:全く違います! 父ヘンリ2世は末子ジョンを溺愛していました。ヘンリ2世は1184年にはアキテーヌ公領をジョンに与えようとしたのですが、リチャードの離反を招きます。この親子の不和のなか、1188年に父王と王太子リチャードの争いが起きます。当初は父王につたんですが、リチャードの勝利が確実になると兄側に寝返り、それが父を大いに失望させ、その死を早めたと言われています。
 微:このジョンを人生の師と仰ぐ教育をイタリアは国を挙げてやったんだな、統一後に。
 苦:確かにイタリアは節操ないですが、関係ありません。そんなわけで長子リチャードが王位を継承します。リチャード1世が十字軍遠征やフランスとの戦いに明け暮れ、長くイングランドを留守にしていました。王位簒奪を夢見ていたジョンは、リチャード1世が第3回十字軍に出陣した際に、フランスに留まるよう指示されましたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与します。
 微:要するに、家茂を差し置いて、京都で将軍のように振る舞った慶喜だな。
 苦:近いものがあります。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と提携してイングランド王位を狙うのですが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせませんでした。
 微:本当に、目的のためなら手段を選ばないやつだな、ジョンって。しかも人望がない。
 苦:本来なら王位につく可能性は少なかったのですが、1199年にリチャード1世が戦死してからジョンをめぐる状況が一変します。リチャード1世はジョンの上の弟ジェフリーの遺児アーサーを王太子としていました。ですがアーサーがフランス王フィリップ2世と親しかったことから、イングランド諸侯がジョンのイングランド王継承を実現したわけです。
 微:人望がないけど、他に人材がいないから首相になった安倍や麻生のようなもんだな。
 苦:ま、似たようなもんですね。で、失地王の由来に入ります。ジョンは1200年に結婚するのですが、相手は既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームでした。
 微:『女性自身』で言うところの略奪婚だな。
 苦:さしづめ『卒業』のダスティン=ホフマンですか。
 微:オレには『レインマン』のダスティン=ホフマンに見える。
 苦:イザベラの元婚約者は1202年に主君であるフランス王フィリップ2世にこれを訴えます。フィリップ2世は臣下であるジョンを法廷に呼び出すのですが、ジョンは拒絶します。
 微:「だが、断る」だな。
 苦:フィリップ2世はそれを理由にジョンの全フランス領土を剥奪することを宣言、その上、ノルマンディー以外のアンジュー家の領地をイングランド王位継承予定者だったアーサーに与えたわけです。このため、フィリップ2世・アーサー対ジョン王の戦争となりました。
 微:町内会の草野球チームだな、助っ人の方が正式なメンバーよりやたら強力って。
 苦:余計な譬えはいいよ! 劣勢だったジョン陣営ですが、1203年にポワティエでアーサーを捕えます。そのアーサーがまもなく消息不明となったため、ブルターニュの諸侯はジョンに反旗を翻しました。
 微:兄弟揃ってどっちもどっちだな。
 苦:ジョンはフランス貴族たちの人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前に、わずかにアキテーヌの中心地ガスコーニュを除き、1214年までにフランスの領土をほとんど失います。
 微:ヘタレだな、ほんとに。しかし封建制社会のこわさがよくわかるな。日本でも勝てば官軍というけど。
 苦:西欧は国王も貴族も組長みたいなもんです。次いで教皇インノケンティウス3世との確執です。欠員となっていたカンタベリー大司教の後任に教皇は1208年にスティーヴン・ラングトンを推します。
 微:萌えたな、推すくらい。
 苦:芥川賞じゃねえよ! ジョンは拒否し、イングランド諸侯の多くもジョンを支持したんですが、1209年に教皇はジョンを破門します。ジョンは無視し、没収した教会領の収入で軍備増強を計りました。
 微:妙に強気だな。海上自衛隊が応援に来ていたのか?
 苦:それはソマリア沖です。1213年にインノケンティウス3世がフィリップ2世のイングランド侵攻を支持すると、これに呼応して諸侯の反乱が計画されました。
 微:ことわざ体現人間だな。踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、貧乏金なし。
 苦:最後のは暇なしだろ! 苦しくなったジョンは1213年に謝罪して教皇に屈しました。
 微:ゴメンナサイって百回書いて提出したそうです。
 苦:それは小学校時代のキミです。その時、ジョンは反省の意思を示すためにイングランド全土を一旦は教皇に献上しました。迷える子羊を救うことはキリスト者の務めで、そのトップが教皇なわけですから、赦しを与えざるを得ません。ジョンはローマ教皇の封建臣下となり、主君から再度与えられる形でイングランドはジョンに返還されたわけです。
 微:まさか、日本軍みたいに、負けるとわかってるのに「ここまで来たら行くしかねえだろ!」ノリか?
 苦:ジョンはただのバカではありません。ジョンが教皇の封建臣下になったため、フィリップ2世によるイングランド侵攻は不可能となりました。このあたりの駆け引きはある意味天才的です。フィリップ2世は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めましたが、イングランド海軍の援軍によりフランス王軍は船舶の大半を失って撤退しました。
 微:突出した人間が出てこないように社会的圧力がかかるのは同質社会日本だけではなかったのか。
 苦:誰が比較文化しろと言った! そして大陸領土奪回のために海軍を整備し、フィリップ2世と対立する神聖ローマ皇帝やフランドル伯と提携します。しかし大陸領土喪失による収入減を補うため、イングランドに重税を課しました。諸侯・庶民の不満は限界近くまで高まっていました。
 微:熱狂的に支持しておいて、手のひらを返すのは小泉や橋下を支持した日本人だけではなかったんだな。
 苦:比較文化はいいよ、もう! ブーヴィーヌの戦いからイングランドに戻ったジョンを待っていたのは、諸侯から庶民にいたるまでの不満でした。諸侯との内戦状態となりますが、ジョンを見限る者が多く、1215年6月15日にラニーミードにおいてマグナ・カルタを認めることで和解しました。
 微:でかいカルタだな。『泣きっ面に蜂』『恥ずかしながら帰ってまいりました』とかの札があって。
 苦:カルタはチャーター、憲章というか箇条書き項目だよ! しかし、ジョンは教皇インノケンティウス3世に働きかけ、マグナ・カルタの破棄と反乱諸侯の破門を命じてもらい反撃に転じました。
 微:どっちも節操がないというか、勝てればいいのかよ。
 苦:わずか2ヶ月でマグナ・カルタは廃棄され、それに不満を持つ貴族たちは、フィリップ2世の長男ルイの支援を得て反乱を起こします。その戦乱の中、1216年10月にジョンは赤痢により死去しました。諸侯は息子のヘンリ3世を支持したため、ルイは撤退を余儀なくされました。
 微:ルイくん使い捨てされたのね、カイロみたいに。
 苦:以上、失政が続いたジョン王でした。なお「ジョンの評判が悪かったため、以降のイギリス王でジョンを名乗ったものはいない」という俗説がありますが、これは半分しか当たっていません。
 微:え、オレはチャールズが即位して内乱が21世紀に起きると期待していたのに!
 苦:プランタジネット朝にはジョンという名の王子は何人もおり、ランカスター家の祖もジョン・オブ・ゴーントです。たまたま早世したり、兄が健在だったりして王になれなかっただけなんです。
 微:運の悪い名前なんだな、イングランド王室には。「崇」の付く天皇みたいだな。
 苦:順序が逆だろ! この世に恨みを残した天皇・皇子に後の時代に付けたんだよ!(ペシッ!)

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