今、Ryuchellのことを書くのは間違ってるのかもしれないけど、それでも。
応援していたRyuchellが死んでしまった。
一昨日のことだ。速報が流れたのは、7月14日の午後7時ごろ。
私がこの時感じたのは、他の何でもない、圧倒的な「恐怖」だった。
Ryuchellという殻の薄い卵が、世論という重しによって
ぐしゃっとつぶされた音が聞こえた。
彼の最近の投稿やYouTubeを見ていて、いつかこの時が来てしまうかもしれない、と思いつつ、本当に来てしまったこと、この上なく胸が苦しい。
私が、ここまでの恐怖を感じたのは、
彼のセクシュアリティの可変性がいかに世間に受け入れられず、
異端者的なものとして扱われ、さらにそれらの意見は
ハードなものでない限りマジョリティの「正論」とされるかを
この目で見てしまったからだ。
友人や親との会話の中でも
「でもあれって、Ryuchellがいけないよね??」
「非難されるのって、しょうがなくない??」
という言葉をよく聞いた。
たぶん、これらの言葉は
彼のパートナーであったぺこちゃんとの対比の上に成り立っていると思う。
ぺこちゃんは人格者だった。
ぺこちゃんの言っていることは、きちんと考えられた上での言葉だったし
彼女の言葉には強い力があったし、みんなが
「ぺこちゃんがそういうなら、(Ryuchellの言い分はよくわかんないけど)納得するよ」という雰囲気になっていたように思う。
それでも、
それでも、
Ryuchellは「親」を放棄したわけでは決してなかった。
一人の人として、子供を大切に育てるという意志は、
ぺこちゃんと変わらなかったように思う。
「親」であることを放棄する人たちがたくさんいる中で
「性別」を放棄した人だけが責められてしまう世の中。
様々な可変性が少しずつ認められるようになってきた中で
家父長制だけ根強く残っているのが露呈した日本の世の中。
映画「リリーのために」などを見てもらうと
いかに「性」というものが揺らぐものであるかがわかるのに。という
強い憤りと悲しみと、自分と世間のズレからくる恐怖を覚えます。
どういうものにも、なんにでも、
一つ引いて、全てのものは移ろっていくんだという
変わっていくことを受け容れる姿勢は本当に重要だと思います。
これからの時代、変わらないことの方がきっと少ない。
Ryuchellさん、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ぱとろん