疲労困憊はサウナで流すに限る、の話。
こんばんは。おやすみなさい。おはようございます。こんにちは。
ぱとろんです。
今日は、最近ハマり始めた、サウナの魅力を語ります。
気付くの遅いよ~、という方もいるでしょうが、わたしの本格サウナデビューは2カ月前。長期インターンでサウナの記事ばかり書いている反面、一度もその流儀に則ったことがないのはいかがなものか、ということで、比較的安価なサウナハットを買い、地元のサウナへ。
サウナ10分、水風呂4分を3回ほど繰り返したところで、「それ」は突然訪れました。いわゆる、「トトノウ」とやら。
経験してみて、初めてこれか、と気がつく、世にも素晴らしい体験でした。眩暈に近い、言い方を変えれば、「気持ち悪さ」の一歩手前、のようなもの。でも、気持ち悪さの一歩手前のようなものは、快感に最も近いゾーンの一つで、脳みそが思考をやめ、身体を洗ったり浴槽に浸かったりしているおばちゃんたちが(あるいはおばあちゃん)、ただの情景として眼球に投影され、脳内に再生され続ける様が、それはもう形容しがたいほどに、心地よいのでした。
しかし、問題はここから。その後、サウナに通い詰めるも、初回と同じ様なレベルの「トトノウ」は経験できず。
かの有名なサウナ雑誌、『サ道』において、サウナの達人である「蒸しZ」は、「サウナは一つの趣味・行為であって、それ以上でもそれ以下でもない、サウナ自体に幸福を求めてはいけない」的な名言を吐かれておりましたが、本当にその通り。
サウナに対して、「しんどいことのリフレッシュにしたい。ととのって悦に入りたい」という邪念が入ると、やっぱり上手くはととのえないものです。そう考えると、心を無にする禅とサウナを掛け合わせるのも、あながち間違いではないのかも。
「思考を放棄して、身体の今ある状態に、集中する」
そう学んだわたしは、初回の「トトノウ」には至れていないものの、これを目的とはせず、嫌なことがあった日の厄払い的な儀式として、サウナを使用しています。
昨日のサウナも、その儀式の一環。朝一でいった仕事で、大変な心労があったので、これは今日中に捨て去ろう!ということで、例によって地元のサウナへ。
その日の体調にあわせ、サウナ8分、水風呂6分のサイクルで回しておりました。(体調とサウナ↔水風呂の関係性は意外と重要で、入れば入るほど、その見極めはできるようになるものです。無理のしすぎにはくれぐれも注意。)
多くのサウナ―は、サウナでほかほかになったのちの水風呂が最高に心地よいといい、わたしはそれに反対ではないのですが、むしろ逆の方が好き。
つまり、水風呂で身体がひえっひえになり、血管が極限まで収縮した後に入るサウナの方が好きなのです。身体がサウナによってどんどん温められていくと同時に、脳がぼーっとして、何というか、嫌なことを忘れるにはちょうど良いのです。
そんなこんなで、今日はサウナの魅力について語りました。
月並みな言葉ですが、一度入れば、沼りますよ。ぜひ。
★今日のまとめ
・ととのうことを目的にサウナに入るべきではない
あくまでもサウナは行為の一つ。そこに幸福は住んでいない。
・サウナと禅はつながってる
自分を空っぽにして、デトックスできるのが大きな魅力。
・多くのサウナ―は、サウナ→水風呂の流れが好きだけれど
ぱとろんは水風呂→サウナの血管の緩む感じが好き。