学問的アンパンマン
デュパンフランセというお店に入ると、アンパンマンがいた。
(お店の外観などを写真を撮らせてもらった)
THEアンパンマンがそこにはいた。
アンパンマンは、つぶあんなのかこしあんなのか疑問に思う人はいても(ちなみに、やなせたかしさんがつぶあんだと昔答えている)、アンパンマンが何パンなのか疑問に思う人はいない。
私はアンパンマン談義について書くまで、アンパンマンの顔の中身について考え方ことは無かったのだが、アンパンマンのあんこについてはやなせたかしさんが回答しており、つぶあんなのかこしあんなのか論争は、その回答にてつぶあんなのだと決着がついたことを知った。
つぶあんこしあん論争は、アンパンマンが前提としてあんぱんであって、あの顔をみたら、これはアンパンマンの顔だからあんぱんであるはずだと無意識的に思い込んでいるからできるものだ。
だから、デュパン・フランセでアンパンマンを見つけて、二度見した。
アンパンマンの顔をしといて
クリームパンなんて、そんな盛大なフェイントがあるだろうか。(思わず買ってしまった。)
ちなみに、本物のあんぱんの方もつられて買ってしまった。
こちらの商品名は「フランスあんぱん」
フランスあんぱん?
フランスパンでも、あんぱんでもなく?
あんぱんというのは日本のものではないのだろうか。フランス仕様のあんぱんというものがあるのだろうか。
とにかく摩訶不思議な気分になってアンパンマンの顔をしたクリームパンと、フランスあんぱんを買ってお店を出た。
アンパンマンの顔をしたクリームパンには
ケシの実がふんだんにまぶされていたが、フランスあんぱんなるものには、黒胡麻がこれまたたっぷりまぶされている。
先に、フランスあんぱんとやらを口にしてみる。
皮がかたくて、しっかりしていて、けれどなかはもっちもちで、餡はしつこくないのにしっかりあんこの甘さだった。
黒ごまがいい役割をしている。
何より皮が特徴的と言っていい。美味しかった。
続いてクリームパンを頬張る。
アンパンマンの顔からカスタードクリームが溢れ出す。
クリームがほんのり甘くて、濃厚で。
アンパンマンの顔には、赤い丸が3つ。
あれは、左から
ほっぺ、鼻、ほっぺだという。
色々としらべてみたところ、
アンパンマンは顔の一部(だいたいはまわりから)を分け与えるが、
この真ん中の、鼻の部分を分け与えるシーンもあり、赤い鼻もパンでできていて、鼻はジャムおじさんが常備しており、鼻がとれると力が出ないらしい。
おまけに、この赤い鼻、パンはパンでも、
あんぱんではなく生地だけらしい。では、アンパンマンの顔をしたあんぱんやこのクリームパンの鼻の部分に何も詰まってないのは正しいということだ。
それにしても、アンパンマンの顔をしたパンがクリームパンとはおそれいった。
わたしたちの中にいかに、
アンパンマンの顔=あんぱんが
無意識的に当たり前に等号で結び付けられているのかを突きつけられる。
アンパンマンの顔をしていたら、
あんぱんのはずだというのは、
やなせたかしさんの世界を存分に生きてきた私たちには、無意識的に"そうであるだろう"と勝手に決めつけてしまっているもので、
このクリームパンは、
アンパンマンという左辺と
あんぱんという右辺が等号であるということを、疑わねばならないということを私に突きつけた。
前提、常識だと思っていることを疑う必要がある。まさに、哲学である。
哲学というものは、
個別科学(学問)が基本的に仮定している根本的な概念や前提、学問方法論そのものに疑問を提起しそれについて考えるものである。
あんぱんまんとは何か、
という哲学に入るわけだ。
記号学的に考えれば、
あんぱんによってできた顔を持つあの、
国民的キャラクター「アンパンマン」は、
そのsignifie⬇︎
と
「アンパンマン」というsignifiantは、
等号で結ばれながらも、すなわちそれは、アンパンマンを観て育ったわたしたち視聴者が、無意識に等号としているのであって
アンパンマンの顔(signifie)を見たら
それは「アンパンマン」(signifiant)であり、
「あんぱん」(signifiant)であるはずだと
思い込んでしまっているだけで、
このアンパンマンの顔をしたクリームパンは、
「アンパンマン」という物質的様相と
「あんぱん」という精神的概念には
決められた結びつきがあるわけではなく
恣意的なものなのだということを
よくよく理解させてくれる。
記号学ついでにいえば、
私たちはアンパンマンというあの存在、
「アンパンマン」という記号表現をみたとき、
実際にあの、ジャムおじさんによって顔を生成され、バイキンマンの悪さを見つけては叱る、あの、丸くて目がくりくりしていてマントをつけている存在を思い浮かべるのと同時に、
正義
ヒーロー
を浮かべる。
この「アンパンマン」という存在そのものに対する記号表現を記号論的にいう表示羲(denotation)というなら、
マントをつけて、空を飛び、町の困った人たちを見つけては助け、バイキンマンの悪事を成敗するあのsignifieをみてそこに"正義"、"ヒーロー"といった字義通り以外の意味をイメージするそれを、共示義(connotation)という。
"正義の味方"と言われてアンパンマンが浮かぶのも、アンパンマンを思い浮かべたら"正義"、とイメージするのもこのコノテーションなのだ。
やなせさんは、自身の戦争体験から、何よりも辛かったのが食べることがままならない、餓えであり、戦争には正義が存在しない、逆転可能なものから、逆転しない正義を、飢えを救うこととして、困った人にパンを分け与える、
それも、自分の身を削って与えるキャラクターとすることで、アンパンマンを=正義の味方の式として確立させ、それは今や日本国民のほとんどに無意識的に刷り込まれた。
確かに、やなせさんがそう設定したのだから、アンパンマン=あんぱんであるけれども、
「アンパンマン」というこの文字と音で表現されるあの丸くて顔に丸3つあるsignifieを
「アンパンマン」というsignificantであらわしていて、それは共示義として「正義」が引き出される、むしろ正義というsignificantを体現するsignifieであるならば、
あのクリームパンのアンパンマンは、
あの顔をしているだけで正義の味方のあのキャラクターを表していることになるので、
「あんぱん」まんなのではなく
確実に「アンパンマン」なのだから、
パンがクリームパンだったとしても
それは確かに「アンパンマン」なのだ。
「クリームパン」と商品名をつけられた
あの"アンパンマン"は、
アンパンマンという記号と、
あんぱんという物質的様相が
いかに恣意的なものであるかを体感させた。
そして、アンパンマンの顔をしたあのキャラクターが、仮に、万が一その中身がクリームだったとしても、
あのアンパンマンというキャラクターによって我々は彼がパンの種類として「あんぱん」であるという情報より、もはや
彼が正義の味方であり、ヒーローであるという共示義が無意識的に結び付けられるのであって、彼の中身がクリームである日があったとしても彼が私たちにとって、前提的に正義の味方の体現であることを疑わないのだ。
※ついでなのですが、以前書いた「アンパンマン談義」では、「アンパンマン」ファンの見方の違いとして
「アンパンマンの、顔をちぎって分け与える姿が好きな人」と
「アンパンマンのちぎったその顔を食べたい人」の違いを語っています。
また、トップ画像のように、
アンパンマンの顔や身体が見えなくとも、
私たちはアンパンマンの色合い、
ドラえもんの色合いをみると、
脳内で補完して「赤と黒と茶色と黄色のこのカタチこの色合いの組み合わせはアンパンマンだ」
と推測できる。
つまり、我々にとってアンパンマンやドラえもんは、全身が映され、あの顔体つきが見えずとも、色彩の配置や組み合わせをみればそれだけでわかる、固有のものとして認知できる程度にも、概念的なものとなっている。