生身の人間を見ていますか?
この記事を書いていた途中に、
自殺報道が流れた。
(追記:これは、
三浦春馬さんの報道等の
数ヶ月も前のこと。)
SNS等が普及し、また、
特に最近は芸能人側の方が、
積極的に発信するようになったことで
芸能人、またインフルエンサーと
呼ばれるような方々と、
”一般人”の距離が
近くなって、
ファンとしては、
とても嬉しいことが多いと思う。
今は、テレビ出演をする
芸能人やお笑い芸人さんでも、
ご自身のTwitterやInstagram、
YouTubeチャンネルをあくまで
発信場所として重視している方は
多いのではないかなと。
以前にも、ゆうこすさんに対する
Instagramでの誹謗中傷に関して記事に
書いたことがあるのだが
どうも、時々、
それを相手を目の前にして、
対面して本当に口にできるのかな、
この人は、
その画面のアイコンの人の向こうに
生身の人間がいるとわかっているのかな?
と思うような人が、
明らかに増えた気がする。
当然、
例えば何か不祥事なり、
失敗なりを本当に
起こした人がいたとして、
それを悪くない、とか
仕方ないじゃないか、とは思わない。
し、仮にそれによって、
被害を受けていたら当然、
腹が立つこともあると思う。
そういう事情でなくとも、
政治家にも、芸能人にも、
「え、この人何言ってんの?」
と、引いてしまうような、
差別発言や時代錯誤も甚だしい発言、
人を傷つけるような言葉を
言う人はいて、その人に対しては
「え?なにそれ…うわぁ…」とか
「それはないだろう…」とか
やはり思うことはある。
決して、誰かが、
何かを犯したとき、
批判的な考えや気持ちに
ならないわけではない。
でも、それと、
そこからその気持ちを、
SNSなりで当人にいうか言わないかは
全く違うと思う。
いやむしろ、SNSなどだからこそ、
直接相手にいう場合とは、まったく、
天と地ほど異なる。
恥ずかしながら、
わたし自身にも
友人に対してだが経験がある。
直接だと、言いづらいことも、
画面越しになると言えてしまったり
言ってしまったりするのだ。
携帯電話、スマートフォンや
パソコン、テレビ、などという
画面1枚挟むと、そこには、
心理的障壁が、
消えてなくなる魔法でも
あるのだろうか。
いや、
一般市民や視聴者だけに限らなくて
「個人的な発言なんです」という
芸能人の方が、
公の場であるSNSやテレビ番組などに
人を傷つけることを書けば、言えば
それはまた同じでもある。
でも、著名な方なら大抵いまは、
すぐに、批判され、
バッシングされていく。
では、”一般人“である我々は、
その、写真の向こうの、
テレビの向こうの著名な方に、
なんでも言っていいのだろうか…
木村花さんという方が亡くなった。
これが、冒頭のニュースの話だった。
私はこの方に関して
何も知らないので、
詳しいことは書けない。
ただ、この件に関する
報道やネットでのニュースを見ていて
思ったことがある。
木村さんを追い込んだ
言葉を書いた人は、
間違いなく罪だが、
その罪を犯した人を晒しあげたり、
片っ端から見つけ出して
公開処刑にするようなことをしたら、
それは結果として、
木村花さんを追い込んだ彼らと
やっていることはかわらない、
のではないだろうか?
それは鏡像のように、
追い込んだ“彼ら”と、
その”彼ら”を吊し上げる
”私たち”がいたとしたら
それは結局のところ、
村上春樹が、『アンダーグラウンド』の
目じるしのない悪夢、
で書いていたように、
われらも彼らとやっていることは、
変わらないのではないだろうか。
近年、特に顕著だなと思う、
もうひとつの問題は、TV番組である。
正直、今のテレビ番組は、
つまらない。観ないことが多い。
今の、と言ったが昔?わたしが
まだバラエティを観ていた時代から
同じようなことは
無かったわけではない。
ずっとあったことだと思う。
それでも、視聴者は馬鹿ではない。
時代が進むにつれ、
TV以外のネット社会が成熟し、
“視聴者”であった私たちは、
情報を与えられる立場、
にとどまらず、
発信・発言し、
見えない相手に届けられる
立場になった。
芸能人や著名人も
テレビという箱以外から
自身のことを発信できるように
なってきた。
ネットやSNSが急速に普及し、
SNSでのビジネスが発達したことで
そこに社会ができ、
私たちの多くは、
あらゆる手段を使って、
即座に、その場で、
情報を得られるようになり、
また情報を選べるようにもなり、
はたまたその逆で、
様々な情報を閉ざすことが
できなくなった。
スマホを開けば、
情報過多に溺れるし、
いま、そのタイミングで
見たくなかったニュースや発言に
触れてしまう。
そして、激昂したり、
何かを思い出してボロボロになったり、
傷ついてしまう。
そして、さらに言えば
傷つくことをどこか、
勲章にしているような人もいて
でも、
悲しい、つらい事実を知ったうちの
数人は、その次の瞬間や、
翌日にはケロッとしていて、
いや、誰かの悲しさや辛さに
喘ぐ時間があるならまだいい方かも…
誰か有名人の方が亡くなった時
「○○さん……( ;∀;)」
などと書きながら、
その次の1行には、
「なんで亡くなっちゃったの……」
だけでなく、
「彼が生きられなかった分、
私は楽しく生きる!!」だとか
「助けてあげられなくて、
気づいてあげられなくてごめんね」
などと平気で書いてある。
そうした文を見るたびに、
私はなんとなく、
「この人は、自殺したいとか、
死にたいとか生きていたくないとか、
考えたことのない類の人だろうな」
なんて思う。
そして、もちろんこれは、
私の勝手な、本当に勝手な
おもいこみだけれど、
こういう人が、特に、
「なんで亡くなっちゃったの」
というような人が、
いや、もっと正確に言えば
自覚ないままに、誰かを傷つけながら
こういうことを言ってしまう人や
「なぜ周りは気付けなかった」とか
「何が彼を追い込んだのでしょう」
なんて発信しながら、
それはメディアも同様、いやむしろ
メディアこそがそれの権化で、
亡くなった方の過去を勝手に
どんどん掘り下げていく、
その亡くなった方の
家族や近親者を直撃するメディアが、
死にたいとか生きているのが
つらいと思う人々を、
再び追い込んでいるというループに
なぜ気付かないのだろうか、
と。
有名人や芸能人であれば、
亡くなってなお、
プライバシーでも過去の手記でも
誰かに吐露した気持ちでも、
家族を、
突っついてよいのだろうか、
と思う。
もちろん、それがメディアである彼らの仕事であることも半分はわかりながらも…
それでも、近年のメディア、
特にテレビは
「視聴者」を代弁している
みたいな態度で、
執拗にプライバシーを突っつくな、と
思う。
自死を選んで亡くなった方の
本当の死の理由も、
それまでの経緯も気持ちも、
何一つ他人にはわからない。
そこまで決断するに至るまでは、
誰1人寄り添って
理解してくれなかったのに、
誹謗中傷を平気でしてきたのに、
亡くなった瞬間、
「なぜ亡くなってしまったのでしょう」
「誰が、何が追い込んだのでしょう」
なんてけろっとした顔で、
平気で公にして
自分が追い込んだ、
自分が殺したという自覚を
誰1人持たない。
だから、
誰か有名な方の死のニュースに明け暮れる次の瞬間には、
平気で誰かを中傷したりする。
目の前に相手がいなくて、
画面の向こうにしかいない場合
(これは、視聴者から画面の人へ、
だけでなく、
画面の人の中の人が視聴者へという
ベクトルもある)
平気で、きつい言葉で
罵倒したり批判したりする。
携帯ひとつ持っていると、
言葉を発するのが楽になった。
昔は会って直接、でしか
言葉を届ける方法がなかったのが
手紙ができ、
書簡ができ、
文明が発達して電話ができ、
メールができるようになり、
ついには「ひとりごと」と
「さまざまな人宛」の間をとれる形で
SNSが発達した。
SNSの使用は難しくて、
ひとりごとで呟いたことが、
誰かの目に触れるだけでそれは、
もはや独り言ではなくなってしまうし、
誰か特定の人に呟いたつもりのことが
別の誰かにたどり着いてしまうことも、逆に誰にも届かないこともある。
何か言葉を発する時に、
生身の、画面の向こう側の人間を
想像しにくくなった気がする。
有名人や芸能人が多くSNSを利用して、
画面の向こう側の人が近くなったことで一層、「本当は見知らぬ人」のはずの
相手を「知っている相手」のように認識して、
ある人の一面だけで、
称賛も批判もしやすくなった気がする。
さらに、
「芸能人なんだから、有名人なんだから批判くらい耐えろ」
というようなことをいう人もいて、
その逆に
「有名人であること」を濫用して、
誰かを傷つける人もいて…
もうそうなってくると、
誰かが亡くなった時、
「なぜ」なんていうのはバカバカしい。
連帯責任だろう、と思う。
批判する時も
中傷する時も
哀悼する時も
共感する時も
そこに生きている
生身の人間がいるということを、
忘れてしまう。
そう思った。
今、この瞬間にも、
生きたくても、
生きられずに亡くなる方、
生きたくないのに、生きてるのがつらいのに必死に命を繋いでいる方、
死にたいけど、なんとか立っている方
死を考え、選び、実行する方が
あなたの隣にいるということを
想像したことあるのだろうか、
と私は思う。
以前、自殺に関する記事を書いた時、
「私は今、
死にたいとも生きていたくないとも
思わなくなったけれど」
と書いたが、
イマココの私は、やはり
不安定に揺れながら生きていて
「できうるなら早くこの命が、
尽きて欲しい。今すぐでも、
コロンと死んでしまいたい」
と思う。
しかしそれは、やはり、
生きていたくないこととは
少し違う。
会いたい人も大切な人もいるし、
きっと泣きつけば助けてくれる人も
いる。
好きなこともやりたいことも
楽しいこともたくさんある。
それでも私は、
家族に迷惑がかからないなら
今すぐでも消えてしまいたいのに、
勇気が出たなら今すぐでも
命を絶ってしまいたいのに、
と思う。
会いたい人に最後に会って
気持ちを伝えられたら
もう本当に未練はないや
とも思う。
多分、会ったら会ったで
次の欲が生まれるだろうけど。
でも今の私は死にたいな、
なんて思うことはやはりある。
両親に迷惑がかからないなら
今だって死にたいから、
はやく勝手にこの心臓が急に止まって、
その代わりに、誰かもっと生きたいひとにこの残りの命を分け合えればいいのに
と思う。
そんなことを吐露すると
「冗談言うなよ」とか、
「やめてね、」とか
「頑張れ」とか、
たくさん言ってくれるひとだって
いるやもしれない。
それは本当に嬉しい反面、
その中にはやはり
「でも結局この人にとっては
当たり前だけど他人事なんだな」
と思わせる雰囲気で言う人もいる。
批判する時も助ける時も、
みんな、本当に、その相手を
生身の人間を見ているのだろうか
と思う。
働こうとしても無能だから不要、
と言われつづけ、
でも、
働けていない状況では、
生きている責務を果たしていないと
判定される世の中、
頑張って力を出して、
真摯に向き合おうとするほど
無能さを明らかにされて
君などいらない
という事実を突きつけられる、
そして、落ち込んでいると、
ちゃんと働きなよ、
職場選んでるから働けないんでしょ
と。
私は、それを、
職場選ばなくても言われるんだよと
思いながら聞く。
私は転職活動になって初めて
そういう事態に、
君など要らないと社会に
言われているような気がする場面に
直面した。
人は簡単に、生きている理由を
失うことができる。
たったそんなこと、と
周りが思うような、そんなことに
躓いて、もがいて苦しくなって
生きていたくないと思って、
もしくは、死んでしまいたいと思って。
そこで死に至る行動を、
実行するかしないかは、
大きな違いだけれど、
何かのきっかけで多分、
人は簡単にその違いを
乗り越えられてしまう。
そういうことを、
自殺を考えたことのない人は、
「私は彼の分も生きるね!」なんて
いう人は、
考えたことがあるのだろうか、
純粋に疑問だから、とても聞きたい。