見出し画像

寄せ鍋と生きづらさとDNAの話

冬の寒さが深まるほど恋しくなる晩ご飯の定番、寄せ鍋。

鍋の定番は各家庭により異なるでしょうが、我が家はもっぱら寄せ鍋でした。
そんなお鍋の具材を思い起こしながら最近読んだ本の内容に思いを馳せます。

鍋原理主義による生きづらさ

まずは絶対生シイタケ。
エノキに白菜は当然。根菜も大根やニンジンを短冊に。
豆腐は豆腐屋から買った手作り豆腐で「す」にならないようタイミングを見計らって入れる。
白ネギを斜めに切ってくったりと煮ると葛切りがよく合う。
だしは昆布と鶏骨付き肉をぶつ切りにしたものでこれがなくては話にならない。
少々追加の具材があったとしてもこれらは欠かすことのないスタメンと言える。
味付けは薄口しょうゆで下味をするがごく薄味にするので具材味ぽんでいただくのが常識だ。

これらはきまっていることでありそれ以外は鍋ではない。

我が実家はこのような寄せ鍋原理主義であった。
鍋奉行は父だが作るのは母だ。

ところが家計が苦しくなるとこれだけの具材を用意する寄せ鍋は高級料理になってしまう。
冬の簡単ごはんの定番を絶やすことはできなくて、父が苦々し気に始めたのが簡易版寄せ鍋であり、世間でいうところのそれは「湯豆腐」だった。

出汁に白菜と豆腐を浮かべて食し、雑炊で〆るのが定番となった。

これを楽しめばよかったのだが、私たちはみじめさの象徴のようにその鍋を囲んでいた。
しかも冬の間は週4~5はこのメニューなのだからなおのことである。
昔のあの具沢山寄せ鍋にはもう戻れないのだと。
そうむなしく思いながら選択肢の無い経済状況を恨むでもなく豆腐と米で腹を満たした、そんな青春時代だった。

ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考/高橋祥子著

という本を先ごろ友人の勧めで手に取った。
内容は遺伝子、生命科学の研究者であり大学在学中に起業した起業家としての立場・経験に基づいてつづられる。
最新の遺伝子研究の視点から「人生とはなにか」「生と死」「人類の繁栄」などに触れ、科学的解説とそれを受けた我々のこころのありようや生き方を提案するものだ。非常にロジカルでありつつ門外の私でも図解を交えてあるため読みやすく感じた。

変化に対応できない種は淘汰される

私たち家族は経済状況の悪化という変化に対応していたのだろうか。

具だくさんの寄せなべが食べられないから湯豆腐で我慢していた。
それで父、女子高生、男子中学生、老婆の4人が死なずに乗り切れたわけだから対応していたといえるだろう。
この本を読む前はそう思っていた。

しかしようは心のありようの問題で。
私たちはちっともその変化を受け入れていない。
抗おうと努力していない。
その先を見据えて努力という名の変化を望まない。

本の中盤で記される「成長のためにカオスの中に身を置く」という項目を読み私は確信した。
あの頃の我が家は確かにカオスであった。
母の病と死別、父の失業など様々な不幸が降りかかっていたカオス。

その中で私は父に代わって家族を守った。
なんて偉いのだ。
父と母に代わって家事はすべてこなし痴呆の進む祖母も介護を買って出て父のために弟のために家族を守る。
あぁ私はなんて偉いんだろう。本当はもっと評価されるべきだが今は耐えて理不尽に耐え、勉強は最低限高校卒業できる単位をとる。あとは弟をしっかり学校に行かせるべく私が家庭を支えるのだ。本当に健気な私。

辛い高校生活だったのは確かだ。青春も何もなかったが、これを私は「つらい時期もあったけど努力して生き抜いてきた」と勘違いをして大人になったことはとても恥ずかしく思う。

私はあのとき思考停止で渦中をたゆたっていただけに過ぎない。
最低限死なないようにゆたゆたと流れていたのだ。

人が本当に成長するためにはカオスの中にあって、目指すべきビジョンを持ってそのために努力することが必要だ。
ただ弾に当たらないように生きることと、弾をよけつつ反撃の手を考えるのとでは弾幕が途切れたあとの身の振り方が同じなはずはないのだ。

寄せ鍋も湯豆腐もキムチ鍋も

本書の中で印象に残って居るのは人間は自分が生き残ることが一番だということ。自分が生きるために必要なコミュニティを生かすものだということ。

だから私の高校時代の行動も家族のために自分を犠牲にして悦に浸っていたわけだが、もっと自分のために何かを得ようともがく必要があったように今なら思う。

とはいえ過ぎたことはもどらない。
自分の現状に当てはめると、せっかく就職していたのに体調不良で退職して絶賛療養中だ。
どうせならと主婦業に専念し不妊治療を本格化させている。
主人は出張が多く不在のことが多いため家で一人で本を読んだり自分のために時間をつかっている。
うん、悪くない。
主人が居るときには彼の時間軸に合わせて動きつつ彼からのいたわりを受ける。
うん、いいんじゃないかな。

先日初めてキムチ鍋を食べた。
主人たっての希望で私は乗り気でなかったがとてもおいしくいただいた。

寄せ鍋も湯豆腐もキムチ鍋も全部おいしい。
自分が何者でありどうなりたいかをイメージし、必要な努力をするならば気持ちよく生きられる。
新しい味に挑戦すれば更なる出会いや成長もある、というかそこにしか活路はない。

さしあたって今度はトマト鍋でもやってみるかな。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?