能力主義(教育)の空虚さ
僕たちの経験した学校教育はなぜか点数によって勝者と敗者を生み出す。敗者はもちろん悲しいが、勝者は勝者で苦しさを抱えて生きている。周りを見るとそう感じずにはいられない。だとすれば敗者も勝者も関係なく、学校教育は虚しい人間を輩出し続けていることになる。
僕もそのうちの一人で、青年期の多くを集団内の競争に捧げてきた。学校の要求に対して常に期待通りに応えてきたし、多分レールに沿った”いい”人生を送っている。ただこれまで僕は今ひとつ人としての実感に欠けた生活を送ってきた。更にそういうやつ(つまり大学生になって初めて人として生き始めるやつ)が周りにも多すぎる。だから、特に中学高校におけるこの競争的な教育観の根底にある能力主義的教育観とその信仰のもと育った僕たちの虚しさについて語らないといけない。
能力主義とは、人間を評価する時のものさしとして何かを達成できる能力を用いる態度のことで、学校ではほぼそのものさしは受験学力であって、将来の労働力として求められている能力と言っていい。だが近年ではその”能力”という概念自体の拡大も指摘されてる。
(例えば、本田由紀は"生きる力"に代表されるようなきわめて抽象的能力さえもものさしとなりつつある現状をハイパー・メリトクラシーという言葉で説明する。)
能力主義に覆われた社会とその温床たる学校教育は、学歴とか試験の点数みたいな外向きの自己ばかりを評価して育んでいるから、僕たちの世界はリアリティに欠けて、ちっとも面白くなくて地獄だ。そんな教育のもとでは、僕たちの自己はからっぽになってしまう。僕たちは自分に向き合えずにいるけど、それでも生きていけてしまうのが現代でもある。
自分を見つけることは、多くの人に羨望されるような肩書きを身につけることでもなければ、他人に愛されようとすることでもない。それは他を前提にしながらも内側に向かう作業。自我なんていうのは抽象的でキラキラしたものじゃなく、もっと実直でグロテスクなものだ。
能力主義教育は、人間を縦の序列に置いて眺めるその過程で、僕たちの素朴な夢や自由な発想を無駄なものとして排除する。優しさも、愛も、葛藤も、立ち止まることも、人間にとって大切な資質の数々は能力主義の前では悉く無価値とされる。だから今の学校では立体的な人間像が立ち上がってこない。教師はおべんきょうが得意な子を褒め称え、そうでなければなぜか僕たちの存在は否定される。
高校生の僕はそんな雰囲気が苦手だった。進路集会では、塾詰めになって必死に点取りゲームをしていただけの先輩が志望校に合格したために人生の成功者のように扱われている。進路部長は合格の軌跡を高らかに語って、それに大きな拍手を強制された時、僕は空間から消えたいと願った。別の授業では南米で青年海外協力隊として活動した方に質問をする機会があった。サッカーが好きな僕はストリートサッカーについて聞こうとしたけど、その時学年主任はなんでそんなこと聞く必要があるんですかと笑った。地獄だと思った。要不要の次元だけで生きていたら人類はここまで豊かになっていない。
能力主義は教室以外でもみられる。社会は学歴や職業などのナンセンスな基準で僕たちを勝ち組、負け組とくくる。勝ち組になったとしても一歩踏み外せば自分も負け組になる可能性があるから、そこには明日には今日の自分を愛せない恐怖がある。部活だって同じ。スタメンでチームに貢献した君には価値があるけど、明日君より上手い人が出てくれば君はチームからもう必要とされない。
僕たちは気付いたころには、産業社会に適合するための椅子取りゲームに勝手にエントリーさせられている。このゲームは終わらない。就職偏差値、"市場価値"を煽る広告の数々、無意味な語学試験、必要のない資格勉強。僕たちは他人を貶めてでも優秀でいたいし、人に気に入られたくて仕方がない。
たしかに競争というものは常に人類の力の源だったと思うし、美しいものだと思う。ただ能力主義が最前面に押し出されているとすれば現状は地獄に変わりない。そんな学校はつまらない産業ロボットを量産する機関に成り下がる。
僕も学生の時は何かを成し遂げることしか考えていないナンセンスな人間だったから、いつもA地点からB地点に辿り着けさえすればいいと思っていた。そして僕は常に周りに有能であると証明する必要にも駆られていた。両親は僕の教育やスポーツに投資をしてくれたから期待に応える他なかった。A地点からB地点に辿り着くと周りにとても褒められた。虚栄心はだんだんと大きくなって手放すのが怖くなって、僕は気付けば能力や成績によって自分の存在を確かめるようになった。僕の周りにも、他人の足を引っ張りながら勉強をこなしているだけで誇らしい顔をしてるやつが多かった。軽薄で、虚しかった。
優秀と言われ続けた僕たちは止まることが出来ない。そして気が付けばそこそこスポーツと勉強ができてバランス感覚のある人間が、教育機関から大量に排出される。けどそれしかない。役に立つけど無味無臭な人間がこの世に溢れかえる。からっぽなエリート。スペックや肩書は立派だけど、僕たちには根源的な意味でこうありたいという思いが欠けている。だからまたくだらない飲み会や恋愛に励んだり、いつまでも学生時代の思い出に浸ったりする。人としてどうありたいかという問いを投げかけられたときにたじろぐ僕たちはリアルな人間として存在していない。
外部から押し付けられた〇〇のための能力だけを追求していては、リアルな主体としての人間になれない。人間を美しいものにするのは、直線的な努力や競争だけじゃない。他人や社会に対して価値を発揮することだけが、僕たちの存在意義じゃない。
リアリティをもつ人間になるにはとことん自分の声を聴くしかない。それは将来のため、就職のため、親のためといった潜在的目的意識をできるだけ抜いて、一人の人間としてこの瞬間どうありたいのかを自問自答し続けることだ。やりたいことが世界の役に立たないことでもいい。無駄こそが楽しいのは仕方がない。有用と無用の間を行き来して、苦しみながらも生きていくのがが人間じゃないか。
学校でも、目の前の人間に、君はどう思う?君はどうしたい?と主体としての答えを引き出すような問いを投げかけ続けないといけない。自己目的的な行為でいい。それを積み重ねれば、もっとみずみずしくて愛に溢れて多面的な人間像が立ち上がると思う。もちろんそれは葛藤と同時にだが。
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