ボクとセミとアップデート
2020年、夏。
それが終わろうとする8月下旬の頃。
夜間当直を終えたボクたちはいつものように、
「今日も無事終わって良かったなー」と話しながら、帰る準備をしようと医局に入っていくと、床にひっくり返った巨大なセミがいた。
動かない。
死んでる?
同僚たちはそのセミを見るなり、
ある種独特な悲鳴を上げながら後ずさりした。
「誰かにくっついて来たんじゃね?」
「なんでこんなとこに居んだよー!」
「マジ無理ー!」
ボクは純粋に、
そして興味本位にセミに近づいた。
手に持った瞬間、はねをバタつかせた。
弱いけど、生きてる。
助けてやらなきゃ。
同僚に「お前何やってんだよー!早くどうにかしろよー!」とか言われながら、
「わかったわかった。」
ボクはそう言ってティッシュでセミを包んだ。
息ができないといけないと思って、
ちょっとだけ隙間を作って。
帰り支度をするために医局へ来たボクたちは、準備ができると、セミと一緒に病院の外へ出た。
「ここで逃すよ、いい?」とボクが言うと、
「もうちょっと向こうで逃せよー!」と、
セミを持っているボクから距離をとっている同僚たちは、ちょっと離れた所でボクの動向を見守っていた。
ボクは、ティッシュに包まれているセミを解放した。
すると、医局で弱いと感じたセミは、
瞬く間に青い空へと飛んでいった。
2階、3階、4階、5階、、、
セミの高度が上がるほど、ボクは太陽の眩しさを感じて目を細めた。
「元気に生きろよー!」と
ボクはセミに手を振りながら、見送った。
同僚たちは
「アイツあんなに飛べる力があったの?」
と言いながら青空を仰いでいた。
病院の10階くらいまで飛んでいったところで、
その姿はあっという間に見えなくなった。
「セミの命は短い」と言われる。
セミは身近な昆虫であるが、その生態は明らかにされていない。セミは、成虫になってからは一週間程度の命と言われているが、最近の研究では数週間から一ヶ月程度生きるのではないかとも言う。
とはいえ、ひと夏だけの短い命である。
しかし、短い命と言われるのは成虫になった後の話である。セミは成虫になるまでの期間は土の中で何年も過ごす。
昆虫は一般的に短命である。
昆虫の仲間の多くは寿命が短く、
一年間に何度も発生して短い世代を繰り返す。寿命が長いものでも、卵から孵化して幼虫になってから、成虫となり寿命を終えるまで一年に満たないものが、ほとんどである。
その昆虫の中では、セミは何年も生きる。
実に長生きな生き物なのである。
ボクは医局で弱いと感じたセミが、
大空に向かって自由に力強く羽ばたく姿に、
己の姿を重ねていた。
もう一度、夢に挑戦してみようと思った。
「リベンジ」ではなく、「アップデート」だ。
過去のネガティブな経験をアップデートしたら、きっとあれは失敗ではなく成功するための過程だったんだと思えるだろう。
ボクの中では夢を諦めた形で終わり
あれから数年経ってしまったけど、
ボクが昔から嫌いな言葉の中には、
「諦める」という言葉があるはずだった。
それを簡単に諦めてしまったボクは、
ずっと心のもやが晴れずにいたけど、
今、もう一度挑戦してみようと覚悟ができた。
セミのように、長く生き、また力強く。
数年後、ボクの夢が叶ったら、
そのときはまた、乾杯しよう。
これが、
2020年夏の、ボクの覚悟と思い出だ。