思えば「昭和」は良かったかも
自分の母が再婚して住んだところは
山の中腹
でも歩いて「駅まで行けるところだった」
南海電車と近鉄電車の真ん中で気分で選んでもいた
難波に出る場合は南海
阿倍野に出る場合は近鉄っていうかんじ
あたしが住んでた頃はそこはとてもしずかで緑豊かな所やった
あたしは小学校にも行かず
山を散策する日々
学校の勉強はできなかったけれど
草の名前はよく知っていた
調べたりしてた
欲しいものは牧野植物図鑑
それは今でもそうなのよ
誰かプレゼントしてくれんかいなー^^
でそれからの話
山に入る
そこは自然が豊かで「ヤマモモの木」があった
ある時、弟がその木に登っていたので・・「ほしい」というたんだけど・・・・
くれなかった
意地悪だった
上でパクパク美味しい美味しいと食べる
あたしは高所恐怖症やから「木には登れん」美味しそうにパクパク食べる!!!
大きくなってからあのときの事言うたら「謝ってくれた」いい子やった
それがどんどん再開発という名のもとで
木々が切られ
道ができ
池が埋められ
平べったい
クソ面白くもない公園ができてさ・・・悲しい・・・
そういう「時代」でもあったけれど
我が家のお風呂に「貰い風呂」しに来る人も居た
家の前のおばあさんだった
電話はまだ我が家にもないので
大体はなんかあると
そこの電話にかかる
で
大きな声で「電話やでー^^」いう
ありがとうと
言う
使うときはお金「気持ち払う」
なかんじ
大抵はええええいらんわ!という
お互い様の世界
お醤油・砂糖、塩なんかは借りたり返したり
当たり前だった
その地区で多分誰かが「カラーテレビ」買ったんよね
そうしたら
ご飯食べて
何人かで見に行く
でさ
大きな何か相撲があるとか、人気な番組あるとさ
居間の扉開けて
外から見れるようにしてくれてる
何か暗黙の優しさも合った
どんどん向こうがテレビなら
こっちは電話
では
冷蔵庫
みたいな感じやな
高度成長期なんかなー
でもあたしらの小さな町は
みんな平均おんなじくらいの生活レベルやったからか
いがみ合いも
妬みもなく
楽しそうやった
ただ子供の世話はあんまり出来んくらい親はどこも此処もそう働いてたな
みんな鍵っ子やわ
あ
我が家は「鍵はかけてないけど」ね
オープンハウスみたいなもんやから
よく近所やら親戚の姉さんが来て
来るんわいいけど
「あちーなあー」いうて
人の家の冷蔵庫勝手に開けて「飲む」・・・嫌やったな・・・
それから
これが毎晩なんやけど
此処も再開発で
大きな道路ができたんよな
でそれで「立ち退き」
大きな建物ができて
優先的に
地域の住民がみんな「このマンションに入ったんよ」
庭付きのあの家のほうがいい・・・ってみんな言うてたけれどな
お隣のおじさんが帰宅時
毎晩
我が家に間違えて入ってくるんよ
ベロンベロンでさ
で
玄関開けて
わあーと入ってきて
突き当りの台所の居間で
みんなが夕食食べてる時
「なんやしけとんな。。。てんぷらけ?」
大阪弁「何だ貧乏くさいですね、天ぷらなの?」
なかんじ
もうめんどくさい・・・でみんなで「あんたの家は隣!!!!」
あれは
わざとかもしれんな
こういう「よしもと新喜劇」的な事は日常茶飯事
おかんは「藤山寛美」がスキやったけどな
ある時泥棒が入ってきて
おかん一人
「まあ、ご飯でも食べ!おなかすいてるんやろ??」
で
泥棒が改心するとこの話なんて「藤山寛美」やん
あの「パンツのゴム」売りも困ったわ・・・
なんかよく来る
で聞いてみたんよ
あたし一人の時に、、、、きたしそうしたら
「こちらの奥さんはようかってくれはるいうてますねん」
大阪弁
「此処の奥さんはよく購入してくださるという噂」
えええええええ
そんなにパンツのゴムいらんわいな。。。おかん。。。いらん
本日も読んでくれてありがとう
何か昭和懐かしくて甘呉辛くて苦くて美味しい「時代」
ぱたんこ屋
思い出した
あれから近くにできた公園に「ヤマモモの木が」たくさん並木になって
あって
よく熟れたヤマモモを誰もひらわなかった
ある時
手が届いたので
食べたら
酸っぱくて
あんまり美味しくなかったっけ