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「批判するな」というのは「黙れ」と同じではないか?

「批判する者となってはいけない」
「批判される者となってみろ」
「批判だけならだれでもできる」
そんな言葉を聞くことがある。もちろん批判ばかりしているだけでは人の成長はないのかもしれない。けれど、これらの言葉を強者(あるいは強者の側にいると勘違いしている者)が使う時には大いに警戒すべきではないか。

 たとえば野党が批判するのを「野党は批判ばかりではないか」というのは明らかにお門違いである。というのも、それが野党にいる議員たちの責任である。また「野党の声とは国民の声を代弁してもいる」ということを忘れてはならないのだ。

 あるキリスト教徒が野党議員を強く批判するSNSを見かけた。野党が与党だった時に責任を果たしてないではないか、と。うん、なるほど。しかしそれでは今の与党は責任を果たしているといえるのだろうか?しかも問題のある宗教団体と一体化している政党と連立を組んでいることを、キリスト者として何とも思わないのだろうか?与党を批判する人は罪人だ、とでも言いたいのだろうか?

 さらに驚くべきはこのような素っ頓狂な声をリツイート(と今は言わないのか)している牧師がいたことだ。しかも内村鑑三の言葉まで引用して。
 
 この牧師は内村鑑三の「教育勅語不敬事件」を知らないのだろうか。日露戦争に反対していたことも知らずにある一文だけを取り上げるとは、あまりに失礼ではないか。批判だけなら誰でもできる?内村氏が職を辞することになってでも、譲れなかった信仰、信念をどう考えるのか。時の体制に対して痛烈な批判をしたことを知らなかったのか?

 また、牧師が「批判してはいけません」というのは危険な匂いがする。それは信徒にとって「牧師を批判してはいけないのか?」「教会の中がおかしな方向に向かった時に声をあげてはいけないのか?」という方向に向けさせかねないのだ。それは教会のカルト化の始まりになりかねない。大げさなことだろうか?

 そもそもイエス・キリストの生涯を普通に読めばわかることだが、時のファリサイ派やサドカイ派の姿を痛烈に批判していたではないか。傷つき、孤独な人を見捨て、異邦人を差別し対立する民衆にも厳しい目を向けていたキリストは存在していないのか?そんなことはないだろう。

 礼拝における聖書の解き明かしとは、薄っぺらいキリスト教風味のメッセージではない。今、キリストはどこで、誰と、何を分かち合おうとされているのか、そのことを絞り出すことではないのだろうか。少なくとも私は教会生活の中で、神学校で、牧師としての歩みの中でそう叩き込まれたし、これからもそれを繰り返していくしかないと思っている。


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