「507年目の改革」(ローマ3:21~31)
10月31日はハロウィン…なんですけれど、ルターの宗教改革記念日でもあります…って、こちらがメインですよ、教会では!。カトリックの修道士であり神学者のマルティン・ルターがヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に「95か条の提題」なるカトリック教会への疑義申し立てを貼り付けて、宗教改革が始まりました。
その第27にこう書かれています。「金が献金箱の中でヂャリンと鳴ると、人の利徳と貧欲とが増すことになる。」また、カトリック教会ではそれまで「人が救われるのは信仰と行いによる」と考えられていました。この行いという中に贖宥状(免罪符)の購入も含まれていました。これに対してルターは信仰のみ、聖書のみ、キリストのみ、というプロテスタント教会の基本的な枠組み、いやキリスト教信仰の原点を再確認したのです。さきほどの27はその後に「しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。」と続けています。それこそがルターの主張です。
「聖書のみ」とはそれまで信仰は「聖書と伝統」に基づくと言われていました。「伝統」ということの中には、さまざまな聖人伝説なども含まれてきます。歴史を振り返る上では貴重なものですが、それに対し、宗教改革者たちは、信仰の規範は「聖書のみ」だと主張しました。
「キリストのみ」というのは、父なる神様と私たちの間に立つ仲保者は、イエス様だけだということ。ですから母マリアや聖人などを特別扱いすることはありません。特別なのは、イエス・キリストだけ。それ以外は「万人祭司」です。
宗教改革後、カトリック教会では「対抗宗教改革(カトリック改革)」が起き、様々な腐敗や世俗化への反省からカトリック刷新運動が起きます。そして20世紀末にはカトリック教会とルーテル教会が「救いとは信仰による」とする共同宣言を出しました。そして7年前の11月23日には長崎の浦上天主堂にて、カトリック・日本福音ルーテル教会の合同礼拝が開催されます。記念すべきことです。宗教改革は分裂の歴史ではなく、「自分たちの正しさをカトリック教会に見せつける日」でもなく、教会の信仰の原点に立ち返る日なのです。
ルターは「信仰のみ、聖書のみ」という教義を確立する時に、このローマ書を特に再評価しました。律法を守りきることなど、人に本当にできるのか。イスラエルの民はこのことに挑み続けましたが、結局律法によって人は救いにいたることはできませんでした。異邦人だろうとユダヤ人だろうとすべての人間は罪のもとにあり、どんなに努力を重ね律法を守り続けたとしても、人間の側からは救われる可能性がまったくないことが、論じられています。そのような私たちのもとに下されたのがあがないの主イエス・キリストであったのです。キリストの血によってすべての罪は赦され、義とされる。このことにおいて、どのような人間であろうと区別はないのです。これはそれまでのユダヤの伝統やあらゆる宗教の枠組みとも異なる、驚くべき教えです。
「義」という言葉を見てみますと、羊(イエス・キリスト)と我(私)が合体した漢字です。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によってキリストに結ばれて、義とされます。それはどんなルーツをもって生まれてきた人であろうと、どのような人生を歩んだ者であっても、同じことなのです。
では、信仰があればすべてOKなのか。行いは問われないのか。そうではない。結婚式でよく読まれる第一コリント13:3には「たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」とあります。キリストの示された愛を私たちも互いに示しなさいとキリストは言われます。またヤコブの手紙には「行いが伴わないなら、そんな信仰は死んだも同然だ」と書かれています。ルターはこのヤコブ書を「藁の書簡」つまり価値のないものと切り捨てました。しかしルターは後にこの言葉を撤回しています。
私たちはキリストによって赦され、義とされている。そのことは、私たち一人ひとりがキリストに倣う者として確かに、この世に向かって立たされているということ。私たちは誰もがキリストの証し人となるように求められています。
私たちは2024年において宗教改革をどうとらえるべきでしょうか。どんどん世知辛くなる世の中で「どれだけの数字をあげられるか」にますます価値が置かれている。ルターは500年前「疫病などに悩む世の人々の声に当時のカトリック教会が応えていない」ということを背景に声をあげました。歴史の中の教会はパンデミックが起きる度に激しく揺さぶられます。神様から、世界から問われます。コロナウィルスが発生して「ああ、やっと集まれるようになったね」と喜ぶのは当然ですが、一方で教会が世の人の痛みに向き合っているのか。「聖書のみ、キリストのみ、信仰のみ」のはずが、聖書に真摯に聴いているでしょうか。キリストではなく人間が信仰の対象になってしまってはいないか。95か条の提題の28にはこう記されています。
「箱の中に投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、人間を宣べ伝えているのである」
いろんな教会を巡ってきましたけれど、貧しくなってきた時、人がいなくなってきた時に、祈ること、み言葉に聴くことを忘れて、カネの話ばかりするようになる教会ってあるんです(どことは言いませんけれども)。戦後のキリスト教ブームもとっくに過ぎ去って、パンデミックでさらに貧しくなって…さあ今、キリストの心を我らが心とできるかどうか。そして誰かの心の隣にいる者となるのか。宗教改革記念日。それは「遠い昔にあった出来事」ではなくて「いまを生きる全てのキリスト者が、み言葉によって常に現状から新たにされ続ける」ことをおぼえるための時なのです。