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アニメ版『メダリスト』に決定的に欠けているもの
2025年1月から放送が開始されたアニメ『メダリスト』(テレビ朝日系列)
アニメ化されるとは知らず、つい昨年の年末に一気読みしたところだったのでアニメ化の報に触れて驚き喜び、そして実際にアニメを視聴して大興奮した一方で、厄介な素人ファン特有の鬱屈した感情を抱いた。この明確に名付けることの出来ない感情をここに残しておきたいと思った。
(*できるだけアニメで未放送の部分は取り上げず、ネタバレ防止には気を遣うものの、どうしてもこのnoteの趣旨上マンガ部分だけの描写にフォーカスすることがあることをあらかじめ断っておく)
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・ いきなりだけど謝っておく
こんなクソ生意気なタイトルつけてごめんなさい。『メダリスト』大好きです、司先生大好き、いのりさん大好き、他のキャラクターもみんな好き!もちろんアニメ版も好き!好きなの!
漫画をアニメ化するに当たっては、原作の何かを削ったり、あるいは付け加えたりして独自の作品に仕上げていく必要があることもわかっている。そして、私の解釈が浅かったり間違っていることも多々あることもわかっている。それら全部踏まえたうえで、どうしても残しておきたいことがあってこのnoteを書いている。謝ったくせにもう一度、敢えて言う。
アニメ版『メダリスト』には決定的に欠けているものがある。
(以下、書くことはすべて私の中での解釈であったり、個人的な意見だということをご理解いただきたい。)
・ 欠けている曽田正人的エッセンス
曽田正人的エッセンスとは何か
『メダリスト』はジャンルを分類するならスポ根ものだ。スポ根のキーワードは「友情・努力・勝利」。勝利を目指して自分の中の弱さに気づき向き合い、ときに挫折しそうになるけど友人や先生のサポートやライバルからの刺激を受けて、努力して壁を乗り越え目標を達成する。それがスポ根漫画のテンプレートであり『メダリスト』も大筋ではその流れに乗っている。
『メダリスト』が他のスポ根漫画と一線を画す要素は、一言で言えば「曽田正人的なエッセンス」だといえる。
曽田正人先生は『シャカリキ!』『め組の大吾』『昴』『Capeta』など多数の傑作漫画を世に送り出した大家である。
*なお現在は『め組の大吾』の正統続編となる『め組の大吾 救国のオレンジ』を月刊少年マガジンで連載中。(WEBではマガポケで読める)
https://pocket.shonenmagazine.com/episode/13933686331716399719
念のために付言しておくと、『メダリスト』の作者はつるまいかだ先生であって、曽田正人先生ではないし、そして曽田正人先生とのつながりがあるかどうかも存じあげない。でもこの『メダリスト』には「曽田正人的なエッセンス」が一コマ一コマに匂い立っている。
それは陰、闇といった属性であり、主人公が挑もうとしている世界にある惨さ、残酷さ、あるいは主人公自身の抱えるコンプレックスなどの負の感情や、一個の人間としての欠落といった負の部分であり、それらを暗に陽に非常に丁寧に描いていることと、そしてそれらの闇を本人たちが自覚してか無自覚か関わらず、才能や狂気のほとばしりの中でそれらをとりあえず一旦はなかったことにする。でも何かのきっかけでそういった闇は幾度も表に出てくるし、人生のターニングポイントなどの大事な局面に限って、そういった闇が主人公たちを追い詰めるけれど、その度主人公たちの才能や狂気がその闇すら糧として彼らを競技者として成長させる。(往々にして≠人間的成長)これが私の考える「曽田正人的エッセンス」だ。
この「曽田正人的エッセンス」が漫画版では芳醇に味わえたのに、アニメでは希薄化されたり欠落していると感じられたことに、冒頭で記したとおり、私は鬱屈した名前のない感情を抱くことになった。
アニメ『メダリスト』には陰と闇が決定的に欠けている。
*陰と闇を表すシーンではないが『昴』を読んだ人で、このシーンを脳内で重ねなかった人はいるのだろうか?
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正面からライトを浴びるいのり、落日を背負う昴。
手を伸ばすいのり、畳む昴。まっすぐ瞳を向けるいのり、目を隠す昴。
あまりにも対照的すぎて何らかの影響を感じずにはいられない。
薄められた陰と闇
第1話を例にとって見てみよう。いのりはアニメ描写とは比較にならないほど切羽詰まっていて、追い詰められている。まず家庭では母親のアタリが相当きつく、「出来ない」いのりに苛立ちを隠さない。
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学校では忘れ物をして先生に呆れられ、クラスメートたちも「出来ない」いのりに対して非常に酷薄である。この酷薄さがいかにも小学生らしく無邪気で、率直で、攻撃的だ。
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この母親のアタリのきつさ、クラスメートたちの酷薄さがアニメではオミットされていたり、表現がマイルドになっていたりする。母親の口調はマイルドだし、いのりがビクッとなるシーンもない。クラスメートたちも表面的にはオブラートに包んだ言葉を選択している。これが陰と闇の希薄さ、あるいは欠落だと感じる。だから、いのりの置かれている環境―家庭にも学校にも居場所がなく、抑圧され、他者に怯えながら過ごしている―の苛烈さと、そこから生まれるいのりの抱える負のモチベーション(今の自分がいや、)が伝わらないのだ。これをとても残念に思う。
*セリフだけではなく、態度もかなりマイルド化されている。たとえば母親がいのりにスケートを始めることを諦めさせようとして、リンクの上で上手に滑る子供たちの姿を見せようとする。マンガでは、いのりの顔を無理やり向けさせているのに対し、アニメでは指差して見るように促すという変更がある。
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・いのりの抱える矛盾がスポイルされている
いのりの抱える切迫感、周りの環境がもたらす抑圧といった陰や闇がマイルド化していることにより、作品の大事な要素である、いのりの抱える矛盾が同時に薄められている。
いのりはリンクの上でしか自己を解放できない人間だが、そもそもリンクの上というのはとてつもなく不安定で、フィギュアスケートは世界一の選手でも思い通りのパフォーマンスをすることが難しく「賭け」のようなスポーツであることが作中語られる。抑圧された日常から逃れる先としては、端から見れば極めて危険に思える。そしてスケーターの孤独も同様に何度も作中で語られる。「出来ない」ことを責められ、そんな自分を好きになれないいのりが、普通人であればより「出来ない」場所へ望んで挑むのだ。いのりの抱えるこうした強い矛盾がキャラクターの魅力や引力の発生装置であり、作中に通底する悲劇的な結末さえ予想させる不穏さの源である。アニメのいのりが「氷の上では明るい天才少女」のようにだけ見えてしまうのは陰と闇の希薄さが原因だと思う。
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・もうひとりの主人公のはずの司
いのりだけではなく、司のキャラクターも同様に影響を受けている。司はシングルの選手を夢見てリンクに挑んだが、挑戦する時期が遅く、教えてくれる指導者が見つからなかったため、シングルからアイスダンスへ転向するも、全日本選手権出場を果たしはしたが、フィギュアスケートを生業にすることが出来ないでいる。
通常であれば、全日本選手権に出場したことをもっと誇りに思ってよいのでは?と思うものの、司は挫折と、現実との折り合いをつける作業の連続から、自己肯定感が病的に低い。そして司もまた、人生切羽詰まっている。アイスショーのオーディションに落ち続け、出演もままならず、バイトをしながら食いつないでいる。全日本選手権に出場したことすら「自分の実力ではない」として自己肯定が出来ない人間が、それでもフィギュアスケートにしがみついている矛盾をはらんだ存在、それが司という人間だ。
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マンガの第1話は挫折を繰り返した司の痛々しいモノローグから始まり、司がいのりにシンパシーを覚えることへの説得力につながっているが、アニメではほぼ丸々オミットされている(捨象されている)。司は、アニメで強調されている熱血漢的な側面だけではなく、いじけて捻じくれたネガティブなマインドの持ち主でもある。そうした二面性が、いのりの抱える矛盾とのシンクロをもたらし、それが司といのりの二人三脚感がより鮮明にしていることを思えば、やはり味気ないと感じてしまう。
・危うさという魅力
フィギュアスケートの競技特性としての不安定さについては前述したとおりだが、フィギュアスケートの"業界"も非常に不安定である。一流の選手にならなければスケートで食べていくのは難しく、そのためには5歳の頃から本格的に始めないといけない世界。そこから大学卒業ほどの年齢で引退するまでに実績を積み上げなくてはいけないし、フィギュアスケート強豪国である日本国内の競争は熾烈だ。フィギュアスケートに人生を捧げる決意をしなければならないが、決意をする時期が早すぎる上に、選手としての時間もあまりに短い。加えて、選手として修練を積んでいく間、身体は大きく成長していくのに、逆にそれが体重の増加等によりジャンプが跳べなくなってしまうなど、競技上の枷になってしまうこともある。
そうしたフィギュアスケートの過酷な側面が繰り返し作中で語られる度に、フィギュアスケートというのは、とても矛盾や危うさをはらんだ競技あるいは"業界"に思えるのだ。普通はできることが増えていく青春時代の成長の過程において、出来ることが出来なくなっていくことがどれだけ恐ろしいだろうか。それでも選手やコーチたちはそれを前提として、自分の選んだ道を信じて不安定な未来へ突き進んでいくのだ。
ものすごい速度で、不安定な人生をフィギュアスケート選手は生きている。第1話時点でいのりは11歳であるが、ということは、彼女の競技人生は長くても10年と少し程度なのだ。濃密で、不安定で、それゆえに強く妖しい引力を持ったフィギュアスケートの世界が、いのりという矛盾を抱えたキャラクターの裏書きをしている。(こうした構造はまさに先に紹介した曽田正人先生の『昴』とシンクロしていると感じる。)不安定な人間が、より不安定な世界に突っ込んでいく危うさが、目を離せない魅力につながるのだ。この要素が、なぜ『メダリスト』が『メダリスト』という作品になっているのかという根幹部分ではないかと思う。フィギュアスケートという競技や世界を題材にした背景として、この矛盾や不安定さは欠かすべからざる要素であろうと考えている。
・アニメのこれからに期待
こんなことをつらつらと書いてはいるが、これは勿論私の考える私の中の『メダリスト』観であることは重々承知している。SNSの反応は良好だし、配信サービスでの評価も高い。良い作品であることは確かだし、私も毎週続きを楽しみにしている、もうちょっと私の『メダリスト』観に近い描写が織り込まれることを願いながら。原作ファンが映像化作品を見るときの気持ちはおおよそこんなものなんだろうと思う。しかも私の場合、素人かつにわかだからより性質が悪い。
それでもアニメ版『メダリスト』の美しい完走を期待していることを付け加え、キーボードをしまうことにする。おしまい。
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*2025.2.12 加筆/修正 (誤字脱字含む)
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