#205 反事実を探れ
先日、同期の教員からおもしろい話を聞いた。宿題と学力の関係についてだ。彼は宿題に取り組ませることに疑問を感じ、持ち上がりの学級での2年目に宿題を出すのを止めてみた。そして、年度末に行われる学力テストの結果を昨年度と比較してみた。結果は、変化なし。宿題を止めても学力(ここでは学力テストの結果)に影響はなかったというのだ。
この話を聞いて、実におもしろいと思った。
僕は学力テストに向けて復習をさせるし、促す。テストが終われば、すぐに問題解説を行い、振り返りを行う。テスト勉強というものを経験させ、日頃の自主学習の質を向上させるのがねらいだ。
さて、学力テストの結果はどうだったかいうと、「取り組んだ成果は出だ」と思っていた。・・・ん?もしかしたら、「取り組んだ成果が出た」と思い込んでいただけかもしれないぞ・・・
「宿題を毎日やらせているから、子どもの学力が伸びた。」
しかし、宿題によって学力が伸びたのかは分からない。
他の何かによる影響かもしれない。
または、宿題をしなくても学力は伸びたのかもしれない。
もしかしたら、宿題によって学力が下がっているのかもしれない。
ここで大事なのは「反事実を探る」ことだ。
反事実とは、「仮に○○をしなかったらどうなっていたか」という、実際には起こらなかった「たら・れば」のシナリオのこと。(Googleさんによると)
僕の話の場合、復習によって結果が良かったのか。もし、復習をしなかったらどうなっていたのかを探ることだ。
これは理科の学習では当たり前の行為かもしれない。「日光に当てたから大きく育ったのかな?」「じゃあ、日光に当てない場合も調べてみようよ。」といった具合だ。
でも、日常生活においては「反事実を探る」行為は、なかなかできていないだろう。なぜなら、僕たちは分かりやすいストーリーに当てはめて、物事を見ることに慣れているからだ。
もっと言うと、分かりやすいストーリーに当てはめて見ることが楽だからだ。自分の考え(信念)を基に事実を見ようとするのは楽なのだ。だって、自分の考え(信念)を裏付ける事象だけがよく目に入るからだ。一方で、都合の悪い反事実は無視してしまう。
「努力すれば結果が出る」という信念に囚われると、「努力して結果を出した事象」ばかりを探すようになる。そうでない反事実は「例外」「特別」なものとして扱ってしまう。これでは、自分の視野が広がることがないだろう。
子どもは日々変わる、時代の要請も日々変わる。そんな職業である教員ならば、「反事実を探り」、事実に一歩でも近づく姿勢が求められるのではないだろうか。