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「人生の駅」~生きる悲しみ、生きる喜び、生きるとは?~

 4月上旬のある日、私は上り電車を待っていた。朝の通勤ラッシュの時間帯で、行き交う人々は皆険しい顔をしながら、通り過ぎていく。反対のホームに下り電車が到着した。

 降りた乗客が、いっせいに駅の改札口に通じる、エスカレーターに向かっていく。上る順番を待つ人々で、ホームは混雑し始めた。

 一人の男性が群集の脇を通って、乗客のいない方向に歩いていく。サラリーマンだろうか? ネクタイを締め、薄手のコートを着ていた。ただ歩き方がぎこちなかった。

 左足で体重を支えながら、右足の膝を極端に折り曲げながら歩いていた。私が立っていたホームも、電車を待つ人々で混雑していたから、たぶん彼は皆の視線を意識しながら歩いていたと思う。

 何処に行くのだろうかと思っていたら、彼はエスカレーターから少し離れたエレベーターの前で止まった。毎朝、そして仕事が終わってからも、同じように利用しているのだろうか?

 しばらくして、上りの電車が駅に入ってきた。電車が動き出した時には、もう彼の姿はなかった。電車の吊り革につかまりながら、下りホームの光景を想い出していた。様々な人々が行き交う駅では、少し大袈裟かもしれないが、人生について深く考えさせられる出来事に、しばしば遭遇する。

 例えば、駅員に暴言を吐いたり、乗客同士で喧嘩を始めたり、駅構内の公衆トイレを汚しても平気だったり、最近多いのは、ホーム上で「歩きスマホ」をする老若男女の姿だ。「モラルの欠如」として片付けるのは簡単だが、「生きる意味」に無関心、あるいは忌避する人々が増えた表れではないか?

 最近は、人身事故のために、電車の遅延や運休を知らせる案内をよく目にする。死に急ぐ人々の気持ちを、当事者でない私があれこれ推察しても意味はないのだが、群集の視線を浴びながらも、不自由な身体を一生懸命に動かしながら歩く彼の姿に、エールを送りたい気持ちになったのは間違いない。