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自己紹介 | はじめてのnote
何してる人ですか?
ADHD の治療を受けながら就労支援A型事業所へ通所しています。
具体的には何してるんですか?
事業所では色んな業務があるのですが私はパソコンを使った仕事を希望しました。プログラミングに対して執念があったので(JAVAで挫折したことがある)現在C言語の勉強をさせていただいております。
経歴
幼少期はアルコール依存症の父と母は共働きで父方の祖母のもとで育ちました。父は私に対して過度な躾、私からしたら虐待を受けていました。酷く怯えながら毎日を過ごしていました。父という存在は恐怖という恐怖でした。中2の時父が亡くなりました。夕方仕事中に倒れその日の夜中に息を引き取りました。処置のしようがない脳内出血でした。その日から私は恐怖から解放されました。学校に行くのを辞め部屋に引きこもり自由にすごしました。家にいるだけでは暇で母のクレジットカード数枚を限度額まで利用してネット通販で欲しいものを手当たり次第買いました。母に多大な負債を負わせてしまいました。そんな私は当時の担任の援助などもあり、高校へ進学することができました。私は精神的に不安定で普通に高校生活を送ることが出来ませんでした。ある時担任の先生に、発達障がいの可能性があると判断され精神科受診を勧められました。その時はじめて私はADHDの診断を受けました。併存症として適応障害の診断も受けました。薬物治療がおこなわれましたが当時の私は反抗期であったこともあり治療には意欲的ではありませんでした。さらに当時の私は恋愛体質で自己犠牲を伴う恋愛が頻繁にあり、些細な出来事で喜怒哀楽の感情が数分単位で変化するような状態で、感情のコントロールが出来ない状態にあり、ある時処方された薬をODして自殺を図ることもありました。
高校は単位制で単位が足らず3年在籍しましたが4年目の半ばに退学しました。
その後、母の知人の紹介で漁師をすることになりました。その頃は精神科へ通うことは辞め会社の寮に住むことになりました。
ある時、車の免許を取ってこいと言われ合宿免許で神戸へ2週間滞在したとき、はじめて覚せい剤に手を出しました。精神科に通っていたとき処方薬の依存状態にありました。ネットで調べて覚せい剤の効果に魅了されていました。処方薬よりも強い刺激を味わいたかったのです。なれない手付きで静脈注射しました。失敗して腕が紫色になったときは焦りましたが、想像以上の刺激でした。私は覚せい剤を打ちながら自動車の講習を受けました。2週間後合宿免許から帰ってきたとき覚せい剤はもう無くなっていましたが切れ目の状態で実家へ帰りました。腕にアザがあり幻覚もあり様子がおかしかったですが、まさか覚せい剤をしていたなどと疑われることはなく、地元での試験を2回目で合格し免許を取ることができました。そこからしばらく覚せい剤を使用することはありませんでした。
私は漁師のあまりのハードさに耐えられず飛びました。
家出する形で実家に置き手紙を残し再度神戸へSNS で知り合った人のところで1ヶ月ほど過ごしました。
ヒモのような日々を送っていました。働き口を探しましたが縁がなく働けずに過ごしていたので徐々に関係悪化し実家に戻ることを余儀なくされました。
実家に帰ると母は安心した様子でした。
その頃母には新しい彼氏ができており、その彼に叱責を受けました。父親ヅラされていい気分ではありませんでした。妹と母の彼氏のあいだにも大きな溝がありました。漁師は正式に離職することになりました。
その後実家でのんびり過ごしていましたが、仕事をしろと両親にしつこく言われ、地元で働き口を探しましたがなく、単身で上阪を決意しました。
当時家賃19000円のアパートに住み、週3でアルバイトをしていましたが生活が成り立たず、アルバイトを飛び
給料に惹かれ現場仕事の仕事を正規雇用で働くことになりました。朝5時45分集合で夜は遅いときは21時に帰宅するような日々を8年間過ごしました。
ADHD であることを隠していましたが、度重なる遅刻や仕事での頻繁なミス、道具の忘れ物、どんな努力をしても絶えることはなく、その度に叱責を受けました。
時には暴力的な叱責もありました。努力をしているのにうまく行かないストレスから再度覚せい剤に手を出してしまいました。8年間、叱責と覚せい剤の繰り返しの日々でした。私の心は壊れていきました。大きな現場の責任者を任されることもありましたが、ある日重大なミスで先輩社員に叱責を受けました。高圧的で暴力的な叱責でした。その先輩社員は私の日々の遅刻やミスに対して疑念を抱いており、私をダメな社員としてパワハラとモラハラの対象としていました。私は人権侵害をうけていました。耐えていましたが、もう限界がきてしまいもう2度と仕事へ行かないと決めました。
重大なミスを起こした夜
私は家出をしました。全ての連絡を無視し
数週間ビジネスホテルで過ごしました。
持ち物は着替えと覚せい剤でした。
覚せい剤はなくなる度に買いました。
毎日注射しました。
所持金が底をつき派遣の面談に向かう朝
職務質問を受けました。
持ち物検査に応じ、捨て忘れたパケと注射器が見つかりました。抵抗せず両腕も見せました。
そのまま署に連行されました。
取調室で一から百まで話しました。取り調べには協力的でしたが、尿を出せと高圧的に言われました。でるものもでなくて、必死に出そうとミネラルウォーターを何本も買い、数時間後やっと尿を提出しました。
署の装置の検査では緊急逮捕の基準値から外れていたため科捜研の正式な検査結果がでるまで逮捕保留になり自宅待機になりました。
刑事さんに送られ久々に帰った自宅で両親に泣きながら謝りました。
連日使用していため切れ目で数日間自室で寝ました。
2週間後正式な検査結果で尿から覚せい剤の成分が検出されたことで正式に逮捕されました。
それから留置所で数週間すごしました。
いろいろな手続きを経て刑務所に移送される寸前で保釈金を出してもらい刑事裁判まで自宅で過ごせることになりました。初犯だったこともあり懲役1年6か月執行猶予3年でした。
やっと普通の生活を送ることができるようになりました。
飛んだままだった現場仕事は正式に離職することが決まり、私はハローワークで職業訓練を受けることにしました。その時プログラミングを選びましたが、難しすぎてついていけず続きませんでした。またその頃現パートナーと恋愛をしており生活の軸が恋愛に変わってしまい職業訓練は放棄してしまいました。
親の脛をかじり、恋愛に夢中の私は両親はひどく失望させました。私はパートナーと同棲をしたいと思い立ち、正規雇用で製造業の仕事を始めることになりました。朝8時30分から17時までの仕事を3年弱で辞めました。
実家から会社までの距離は近く遅刻しそうになっても間に合っていましたが同棲をはじめてから距離が離れてしまい遅刻を数回してしまいました。立て続けに3回目の遅刻をしてしまったとき信用を失いました。工場内で問題提起され、次遅刻したら辞職してもらうと言われました。それから絶対に遅刻しないように頑張りました。生活習慣の乱れから遅刻確定してしまいそうなときは前もって体調不良の連絡をしてクビを回避していました。
ある日本社工場への異動が決まり、第二工場から離れることになりました。いろいろありましたが人望には恵まれていたので離れるのは嫌でしたが、異動を承知しました。本社工場では工場長が工場長の職務に専念するため工場長が担っていた製品製造の引き継ぎを担当することになりました。結構ハードでマルチタスクや細かいロット管理などADHD には不向きの内容がてんこ盛りでした。スピードも求められ遠回しに早くしろといわれることも頻繁にあり、ストレスは蓄積されていきました。
人間関係も良くなく、部署間での妬み合いや陰口を耳にすることが耐えませんでした。私は努力していたつもりでしたが、ミスを頻繁に起こしてしまい製品検査のお局からひどく嫌われてしまい適応障害の引き金となってしまいました。ある時私は覚せい剤をまた使用しました。体調不良を理由して休むことが数回ありました。
限界を感じた私は退職代行を利用して離職しました。
その後問題なく離職できました。
次の仕事のあてを見つけた上で退職代行を利用したので離職とともに次の仕事へ転職することができました。
在宅のコールセンターの派遣での仕事を選びました。
クレーム処理をすることは予測できていましたが、自分に落ち度がないのでどんな怒っている人でも他人事だから大丈夫だろうと思ってその仕事を選びました。
最初の数週間は研修で、あまりストレスを感じることはなかったのですが研修がOJT に入ると実際に顧客対応をしなければなりませんでした。顧客のクレームに対してマニュアルに記載された文言を適切に判断して選び迅速で丁寧な対応をしなければなりませんでした。
怒鳴る客、腰の低い客、なにいってるかわならない客…。私は舐めていました。見えない相手に対して適切な対応をすることが出来ませんでした。
私はまた覚せい剤を使用しました、1ヶ月で適応障害を理由に退職しました。
その後高給に惹かれまた現場仕事をすることにしました。続きませんでした。1ヶ月で飛び、給料を受けとることが出来ませんでした。
このまま同じような状況が続くことを考えたときどうしようもない不安に襲われました。
完全にダメになってしまう前に精神科へ行くことを決意しました。
こうしてADHDの再治療を十年越しに始めた訳ですが、ADHD の診断に加え、うつ、自閉スペクトラム障がいの診断を受けました。覚せい剤の使用歴は隠していましたが、薬物治療が始まりました。
診察とは別に心理士さんによるカウンセリングも受けました。その時に自分の過去を全て伝えました。
でも伝えたことで何かが変わったわけではありませんでした。
現在覚せい剤への欲求はありません。
まず、高いし買うおかねなんてないし
今年の3月から治療を始めたのに
もうぐちゃぐちゃになりたくない気持ちと
主に耐えがたい不安から逃げるために覚せい剤を使用していたので、抗うつ剤抗不安薬のおかげで覚せい剤をする必要性がないのです。
処方薬との相互作用などの兼ね合いもあり
覚せい剤をしても覚せい剤の効果が薄れる、または効果を感じない懸念があるのでやりたいと思えません。
覚せい剤をやったところで得られるのは後悔と心身の崩壊とお金を失うことだけです。
私の根本的な問題点はADHDによる併存症で
自閉スペクトラム障がい、適応障害、うつなどによってクローズでの正規雇用での過度なストレス下での現実逃避のための違法薬物使用による悪循環であったと思います。
現在抗うつ剤、抗不安薬、抗ADHD薬での再治療を始めたことによって違法薬物への渇望が薄れてゆき、併せて自立支援制度の申請による医療費負担の低減、精神障害手帳取得による生きやすさを得ること、オープンで継続した収入を得ることが出来る就労支援の利用によって、安定した生活を目指していくことが出来ているかなと、思っています。
長くなりましたが自己紹介といたします。
ご拝読いただきありがとうございます。