朋あり遠方より来る
時に論語を読みます。生来の文弱なので、迷った時、荒波にのまれんとするとき、右往左往せざるを得ないときなど特に文に逃げるところがあります。
中学、高校の時は今で言う引きこもりに近く年間の欠席日数も毎年30日を越し、ほんまやったら登校拒否に該当するんやでと妙にウマのあった高2、高3の担任の先生に苦笑いしながら言われました。夏休みなどに救済措置で他の生徒と共に教科書を開いていればオッケーな補講という名の雑談会を組んでくれてそれはそれで楽しみで今でもその時に教えて貰った地学や人文地理の話しなどは役に立っています。
高校時代は特に国語の授業が受け持つ先生との相性もあり苦痛でしかなく授業そっちのけで一学期には授業の進行無視して教科書ぜんぶ読んでしまいそのまま教科書に別の本を重ねて隠れていろいろ読むようになりました。尾崎翠や森鴎外の面白さに触れたのもその頃で。
漢文は何故か特に相性が良くってあれこれ自発的に読むようになりました。授業で習うとおもしろくないのに自分で読むと面白くご多分にもれず中島敦と高橋和巳にはまりました。中島敦の「弟子」は孔子と子路の魅力を余すところなく活写していて今でも好きな小説です。読んだことがない方からすると論語は説教臭く思えるかもですが実際に読んでみると対話を元にした多面的な読みを促す懐の深いテクストで。
今となっては廃れる一方ですが漢分脈に触れたことのある方の書く文章はすぐ分かったりします。
で、何が言いたいかというと論語の巻頭、学而篇は「子曰く、学びて時に之れを習う、亦た説よろこばしからずや。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。」とあります。
ここ数日、遠来のお客様が続きました。ニューヨーク、バンクーバー、シドニー、ヒューストン。
尊敬し敬愛する先達から世界の食文化、とりわけワインを教えてもらい怠惰ながらも学習し店を続けて来ました。ローカルな大阪のお好み焼き屋に遠方から様々な縁を辿って志を同じくする徒がわざわざ訪ねて来てくれる。こんなに嬉しくまた楽しい事があるんだと今さらながらに思います。そして古典的な書物の始まりがそういったシチュエーションであることは時を超えて学び続けることの大切さ愉しさを示してくれているように思います。