日本の生命保険の祖は福沢諭吉だった!
◆What is 福沢諭吉?
先日、ついに1万円の座を渋沢栄一に譲った福沢諭吉。
とはいえ、知らない日本人は誰もいないでしょう。
でも、何をした人?となると首をひねって考えてしまう人も多いのではないでしょうか。
千円札の野口英世は医学者、五千円札の樋口一葉は文学者とイメージと経歴がピタリと一致しています。しかし、福沢諭吉はなんだか漠然としかイメージできないでしょ。
しかし、サラッと答えられない理由も存在します。それは、とにかく色んな「顔」があって、特定の一つの分野で事を成したという訳ではないから。「啓蒙思想家」と書かれていることが多いですが、そもそも啓蒙思想家ってなに?
作家としては日本初のミリオンセラー、学校経営者としては慶應義塾の創始者として有名ですが、授業料をお金で払うという、「学費」という概念を日本で初めて取り入れた先駆者。つまり、日本で初めて費用を現金で徴収したのは慶應義塾。
また、経営者としては三菱の岩崎弥太郎が
「こいつの才覚は俺以上!」
とセンスを認めたほどの才覚を持ち、新聞の編集長兼コラムニストとしての顔も持っていました。また、1日だけですが政治家もやっています。
更に、数々の民間の人材を育て上げ、「文部省は三田にあり」とまで言われた教育者、文明開化で肉と乳製品の需要が必ず増加する+六甲山(から三田あたり)が牧畜に適している=よし畜産をやれと奨励、間接的な神戸牛の生みの親となったり、
「学校作りたいんだけど…」
という大隈重信に対し学校経営のイロハを伝授した経営コンサルタントの顔も…。
中国古典の王様『論語』に、
「君子は器ならず」
という言葉がありますが、福沢諭吉は器では収まりきれない、まさに『論語』風の君子だったと言えます。「知の超サイヤ人」とも言える強さです。
その数えきれないほどの業績の中に、「日本に生命保険を紹介した人」という顔もあります。
■日本の生命保険の祖!?福沢諭吉の別の顔
生命保険は、今ではほとんどの方が加入していると思います。保険会社やプランも多種多様、日本は世界でも屈指の生命保険大国となっていますが、その源は福沢諭吉。
諭吉が生命保険を日本に紹介したのは慶応三年(1867)、明治維新の一年前のことです。 著書で
というふうに紹介しています。まだ当時は「生命保険」どころか「保険」ということばすらなく、『災難請合』と訳しているところに、諭吉の一工夫を垣間見ることができます。おそらく、英語のinsuranceの翻訳に苦心したのでしょう。
この「災難請合」は生命保険だけではなく、火災保険も含めたニュアンスです。
福沢諭吉が保険を紹介してから15年後、明治14年(1881)に、慶應義塾の教え子の阿部泰蔵によって、日本初の生命保険会社が作られました。この会社はのちの明治生命になり、明治安田生命として現存しています。
ちなみに、2番目は帝国生命(明治21年設立。現朝日生命保険)、3番目は日本生命(明治22年設立)です。
その生命保険の言い出しっぺの福沢諭吉は、
民衆「人様の生命を金勘定するとは何事か💢💢」
と非難轟々だった生命保険に、まずは隗より始めよとばかりに加入し、日本の生命保険加入者第一号になりました。当時の健康診断書も残っていると言います。
■福沢諭吉は大男だった!
診断書によると、当時の諭吉は 身長:173 cm 体重:67.5 kg 。身長・体重のバランスが良く、身長は現在だとちょっと高いかなという程度です。
歴史を見る時に、やってはいけないタブーというのがいくつかあります。その一つが、現在の常識の眼鏡をかけて過去を見ないこと。 諭吉さんの身長は今でこそ普通ですが、幕末~明治時代の成人男性の平均身長は155cmくらい。それと比べるとかなりの大男でした。
諭吉さんの「デカさ」を物語るものが残っています。
写真の真ん中が、おそらく最晩年の頃の諭吉翁、服装から、おそらく教え子の慶應義塾の学生と、社会人となった卒業生とのスリーショットだと思われます。諭吉さんが下駄を履き、右側の人が多少後ろに寄っているとはいえ、諭吉が大男だったことは一目瞭然。横の二人がまるで小学生です。
でも、横の二人が小さいのではなく、諭吉さんがずば抜けてデカいのです。
他の「旧お札」の身長は、
千円札(野口英世):153cm
※五千円札(樋口一葉):142~146cm
(※肖像画による解剖学上の推定)
となります。上の写真であれば、野口英世は「小さい方」の背丈だったということです。数字を見ると思わず低っ!と思ってしまいそうですが、100年以上前の日本人の身長はこれくらいだったのです。
生命保険から見た福沢諭吉の顔を見ていきましたが、彼のすごさはまだまだこんなものではないというところ。
福沢諭吉、噛めば噛むほど、いや、調べれば調べるほど面白くマルチな人物なのです。