コン狐 前篇/上田聡子
◆二〇二四年 十月◆
山本希和子はハンドルを切りながら(そういえば、穂乃佳は朝ごはんをあまり食べなかったな)とふと思い出した。穂乃佳は、五歳になったばかりの希和子の娘だ。穂乃佳に熱があるという連絡を受け、職場を早退して保育園へ向かっているのだった。
勤務先のドラッグストア店長は、「感染症やったら大変やよ。早く病院連れていってやらし」と快く送り出してくれた。
職場から園まではそう遠くないが、それでも頻繁にタイヤは道路のでこぼこに乗り上げ、軽く車体が上下する。一月の震災以来、能登の道はあちらこちらに亀裂ができたり、割れがひどかったりと、大変な状態だった。それでも応急処置がなされた結果、市街地についてはかろうじて通行に支障がないほどになった。
けれど先月、能登は豪雨水害にも見舞われ、再び復旧作業が行われている。場所によって土砂崩れや泥に埋もれている場所も依然としてあり、勤務先や保育園がある輪島市街でも、元の生活を取り戻そうとみんなが頑張っている。園の駐車場が見えてきたので、希和子は減速して車を停めた。
その日の晩、希和子は寝室で穂乃佳に、温めた粥をさじで差し出した。だが、穂乃佳は食欲がないらしく、首を横にふっていやいやをする。そして、布団に転がっていたきつねのぬいぐるみを拾うと、希和子に向け突き出した。
「キイちゃん、ほのかの代わりに食べるってー」
希和子は、粥をこぼしたらたいへん、と慌ててさじを引く。きつねのキイちゃんは、希和子の兄である瑞貴の北海道旅行のおみやげだ。旭山動物園で買ったものだという。兄は県外の大学卒業後、愛知県で会社員となって結婚し、向こうに一軒家を持った。
穂乃佳はこのぬいぐるみをとても気に入って、いつでもきょうだいのごとくそばに置いている。ふすまが開き、夫の卓司が入ってくるなり聞いた。
「穂乃佳、熱あるんやって? 診断は?」
穂乃佳を個人医院に連れて行く前に、卓司に連絡を入れていたことを思い出す。
「コロナでもインフルでもないみたいやよ」
「そうなんや。それならひと安心やな」
卓司は、輪島病院でレントゲン技師の仕事をしている。病院のほうも、震災から九か月が経ち、だんだんと元通りの業務となっているそうだ。
「あ、希和子。向こうの部屋でスマホ鳴っとったぞ」
「ほんとう? 見に行くわ」
希和子は穂乃佳の相手を卓司と交代し、隣部屋に置いてあったスマホを持ち上げた。母からの着信履歴がある。かけなおすと、母はすぐに出た。
「希和子? 柿をいっぱい貰ったさけ、明日持っていこうか。ほのちゃんの顔も見たいし」
「あー、穂乃佳、いま風邪ひいとってね」
母の要件は、同じ仮設住宅群に入居した、もともと顔なじみの近所の人から、柿をおすそわけしてもらったという話だった。
一月の震災で希和子の実家は全壊している。両親は夏まで、損傷が少なかった希和子と卓司の家に身を寄せていたが、夏からは仮設住宅に入っていた。
「風邪のときは、ビタミンCとらせんと。明日朝、家に届けるわ」
「ありがとう。そんならよろしく」
寝室に戻った希和子は穂乃佳に粥を半分食べさせ、卓司が茶碗を洗うと言うのでお願いした。そして娘の寝かしつけをしてしまうため、自分も布団に転がった。
「ねえ、ママ。キイちゃんのおはなし、またつくって?」
「えー、また?」
「キイちゃんのおはなし、してくれないと寝ないから」
穂乃佳は最近、寝る前にきつねのキイちゃんを主人公に、寝物語を要求する。その場で、即興でいろいろこしらえるが、希和子の話があまり気に入られた試しはない。
「どんな話がいいかなー? キイちゃんがピクニックに行く話とか?」
「そんなんじゃなくてー」
いつものとおり、今夜も眠らせるまでに、悪戦苦闘してしまった。
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