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明日への跡

 重たい足どりで海岸を歩く。
 仕事終わり、スーツ姿。革靴でのそのそと歩く。目撃者がいたら海に身投げでもするのかと疑われるかもしれないが、そんなことをするつもりはない。職場は山ほど仕事が残っているし、自宅は足の踏み場がないほど散らかっているのだから。
 塩ソフトクリーム。
 忙しさに翻弄されている時、ふっと頭に浮かんだその言葉。シオミズ公園という海水浴場の名物だ。通勤路にあるせいで素通りしてきたが、風になびくのぼり旗はいつも目に入っていた。毎日毎日、自宅と職場を往復するだけの日々。たまには違う場所に行き、珍しい物を食べるのもいいかもしれない。休憩時間が過ぎてもパソコンキーを叩きながら、回らない頭で前向きに考えていた。
 ところがどうだろう。
 仕事が終わり車を走らせた。シオミズ公園のだだっ広い駐車場に停め、販売店へと急ぎ足を向かわせたのだが。
 シャッターが閉まっている。
 店の壁には色褪せたペンキで、営業時間十時〜十八時と書かれていた。反射で腕時計を確認する。現時刻は十八時二分だった。
 たとえ二分だろうが、すでに営業時間外だ。時間は厳守するもの。残業代を稼ごうとして、わざと遅く仕事をしている人間もいるが一握りだ。残業なんて誰しもやりたくないに決まっている。
 もやもやとした感情が湧き上がってきたが、あれこれと理論を並び立ててどうにかねじ伏せた。とんぼ返りするのも癪だったので砂浜に降り立って散歩をしてみる。一日数分間の運動をすると健康に良いなどというおぼろげな知識があったが、やっているうちに虚しくなってきたので早々に諦めた。爪の先ほどの健康志向を意識したところで、変わるものはないだろう。なにもかもどうでもよくなって、目先にあった石段に座った。革靴に入りこんだ砂が不快だったがそのままにした。
 塩ソフトクリーム。そこまで食べたかったわけではないが、いざ食べられないと気落ちするものだ。間が悪い、運が悪い、要領が悪い。すべてに見放されている。最近、仕事でもささいなミスが多くて落ち込んでいる。類は友を呼ぶように、悪いジンクスは悪いジンクスを呼び寄せるのだろう。
 目の前には大海原が広がっている。これでもかとすし詰めされている建造物も、うんざりするほど連なっている車の渋滞もなく、ただ穏やかな海面が夕日に照らされていた。ゆるやかに吹きつける生臭い潮風に、長めの襟足が揺れる。そろそろ散髪に行かないとな、と情緒もない感想を抱いた。
 波打ち際、砂浜にはフラフラと頼りなさげな足跡が残されている。点々と、転々と。すり減った革靴の跡が印鑑のように押されている。
 幼い頃はよく海で遊んでいた。後先も考えず着の身着のまま海に入ったり、幼馴染みとかけっこをしたものだ。よく笑いあっていたのを覚えている。いったい、なにが楽しかったんだろうか。
 スーツで海に入ればクリーニングにだすはめになるだろう。革靴も海水で濡れたら手入れが面倒臭そうだ。雨水でさえ手間がかかるのだから。立ち止まって考えることができるようになったのは、成長したと誇れるだろうか。それとも臆病になったと恥じるべきだろうか。気がつけば年月が過ぎ歳ばかりとっていて、このままでいいのだろうかという漠然とした思いがある。
 潮がだんだんと満ちてきた。おぼつかない足跡が流されていく。消えていく。いつだって、なにもできずに見送るばかりだ。
 ブルル。胸ポケットの携帯電話が振動した、ような気がした。
 仕事でなにかミスをしてしまっただろうか。それとも休日出勤の要請だろうか。はたまた気のせいだろうか。以前、後輩に「スマホがバイブしたのに、確認したらなんの通知もなかった」と話したら「それは仕事のしすぎですよ」と笑われた。「それか、スマホが壊れているかですね」と、最後に変なフォローを入れられて会話は終わった。
 こんな高性能をもった携帯電話だって壊れてしまう。人間はどの程度の強度があるんだろうか。
 幻聴にしろ錯覚にしろ、急ぎの要件が本当に入っていたら困る。なのですぐに携帯電話を確認することにしている。連絡は迅速に。
 上着から携帯電話を取り出して一目。とりあえず、幻聴でも錯覚でもないことがわかった。
 新着メッセージ一件。
 初期設定から変更していない壁紙に一筋。SNSのお知らせが入っている。幼馴染みからだ。なんの用だろうか。なんの感情もなく画面をタップした。
『部屋汚いんだけど』
 苦情がきていた。掃除をする時間も気力もないのだから汚いのは当然だ。
 幼馴染みには合鍵を渡しているので、アポもなくよく出入りしている。
『床にモノとか置かないほうがいいよ。服もさ、洗うのか仕舞うのかわかんないよ』
 返信する前に第二撃がきた。人の部屋に勝手に入っているのはそっちなのだから、とやかく言わないでほしい。
『今、ぜーんぶスミに寄せておいた。ちょっとスッキリ』
 絵文字つきで送られてきたメッセージにひやりとした。一見散らかっているようでも置き場所は決めているので、あれこれいじられたら困る。床には仕事で使う資料や書類もあるのだ。帰宅したらすぐに掘り当てなければ。
『塩豆大福、買ってきたからさ!食べようよ』
 画像も一緒に送られてきた。
 テレビの横に山積みされている紙の束。きちんと布団が直されているベッドの上に、畳まれている服が種類ごとにわけられていた。ちゃんと部屋の床を見たのはいつ以来だろうか。
 朝食代わりのコーヒーを飲んでそのままにしていたちゃぶ台の上も片付いていて、代わりに塩豆大福が乗っていた。
 ちょこんと二つ。
 のそのそと携帯電話をタップする。
『なんで塩豆大福?』
『なんかこの前、塩ソフトクリームが食べたいって言ってなかった?』
 そんな話をしただろうか。まったく覚えていない。
『今の季節にそんなモノ売ってないでしょ。だから塩豆大福にした』
 言われてみれば、シオミズ公園に塩ソフトクリームというのぼり旗はなかった。営業時間という問題ではなく、今は取り扱いがないのか。目まぐるしく変わる季節なんて気にしていなかった。
 落胆する自分をよそにメッセージは送られてくる。それはもう身勝手に。
『一緒に食べよ。とりあえず』
 とりあえず。
 いい加減な言葉がすとんと胸に落ちた。仕事も掃除もほっぽり出して、なんとか体裁を整えた部屋で、とりあえず。塩ソフトクリームと塩豆大福、どちらだっていいじゃないか。おたがい頭に塩がついているし、同じように甘いはずだ。
 肩の力が抜けた。なにはともあれ今は営業時間外だ、とりあえず。
『すぐ帰る』
 それだけ送って、携帯電話をしまった。革靴の砂を落としてから、立ち上がってスーツの砂汚れも軽く払う。
 沈みゆく日が海に溶けている。息を呑むほど深い赤色。明日はまた、綺麗な日が昇ることだろう。
 砂浜が目に入る。波にところどころ消されて、不格好に残された足跡。サイズばかりが大きくて、中身がちゃんと伴っているのかはわからない。だがその足跡はまっすぐ進んでいた。
 自分がどんな人間になったのか、いくつになってもわからないものだ。寄り道や回り道をすることだってあるだろう。だけど確かに進んでいる。不格好なあの一本の道こそが、自分だけの地図なんだ。
 まっさらな砂地に向き直る。大きく息を吸って、新たな作図にとりかかった。
 とりあえず一歩から。

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