見出し画像

子育ての【全ての時間】を愛さなくてもいい

毎日note習慣、3日目!過去、2年前くらいに書いた記事が出てきて、今出すのもありかもしれないと思い、そのままアップしてみます。

なんだか久しぶりのnoteになっております。KLに引っ越してきて、早くも5ヶ月目〜!慣れない仕事は相変わらず…。でも、日々はどんどん過ぎ去っていく。その時間の速さは加齢と共に、加速していく…。自分のストレス発散と子どもへの貢献の優先順位づけが難しいなと思った時、タイトルの概念が湧いてきて、急に文章を書きたくなりました。

子育ての時間は短い、でも自分の人生も同じように短い

妊娠期からお腹を痛めて産み落とし、ふにゃふにゃで誰かの補助なしでは何もできない新生児期から乳幼児期を超えて、いま5歳7ヶ月の息子。だんだんと難しい会話も成り立つようになり、人らしく日々成長を繰り返している。思えば、彼が赤ちゃんだった頃は、自分よりも彼への優先順位を高くせざるを得ないので、とても苦しかった。慣れないことだらけ、自分がしっかりないと彼はすぐに死んでしまう、か弱い存在。執着や責任感が薄い私にとって、苦行のはじまりだった。彼はとても育てやすい子どもだったにも関わらず、また、実家の支援も厚い状態だったにもかかわらず、産前との生活の違いに慣れるのに3-4年くらいかかった。もちろん、子どもは可愛いし、日々の成長も嬉しいし、その存在が私を正しい方向へ導いてくれることは間違い無いのだけれど、彼への貢献が100%になってしまうと、自分という存在に価値を感じられない。子育ては尊いし、その時間は限られているけれど、同じように自分の人生の時間も限られている。

子どもの育つプロセスも人それぞれ

子どもが小さい時ほど、その時が尊いと思われがちだけど、これも少し違うのかなと思ったりする。人それぞれ、新生児期が一番良かった人も、新生児期に全然寝てくれなくて辛かった人も、話せるくらいになってきてやっとコミュニケーションが取れる方が楽な人も、逆にイヤイヤが増して辛い人もいろいろな感情と感想と感覚があっていい。そして、その感情が日毎に変わってもいい。あの時は可愛かった、この時は可愛く無い、でもまた明日は可愛いかも。
年齢が上がってくると一般的には、子育てがラクになるというような風潮も感じるけれど、これも疑問。自己が確立されていき、社会と統合していく中で、問題や人間関係は複雑化していくと思うし、その過程もひとそれぞれ。それは自分で評価する以外、他の人が評価し得ない部分。
なるようにしかならないから、目指す目標があればそれは指針にして、適度に息抜きしながら、子どもと一緒に親も成熟していくのが理想。
振り返ればどんな時も貴重だけれど、短期的にみて視野が狭くなってしまい、ストレスに感じるのではなく、中長期的にみて、その時できることを楽しみながらやっていきたい。

認め、愛す、これを繰り返す他ないのかもしれない

「いま」自分と子供がどんな状態か、常に見つめて、そんな状態のなのか、その状態を味わいきって、それを自分で認めて、受け止める。それができていて、少し離れたところから自分の感情や状態が見つめられれば、「次はもう少しこうしてみよう!」とか、「もっとこうしてみたい」とか、新しい感情や行動への布石が見えてくる。自分の都合で怒ってしまった時も、子供の気持ちを汲めずに言いっぱなしになってしまうことももちろんある。
親も人間だし、心の葛藤はいつも持っている。それを押し殺すのではなく、良い行動に変化していけるように機動力にする。それができたらいいな〜

まとめ

自分と子ども、それぞれの存在が尊い。育児期間・成長過程すべてをまるごと愛さなくてもいい。その時間でしか味わえない感情や状況がある。子供が本当に子供でいられる時間は短いから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?