月面電波天文台と月の電波環境保全
月に天文台を建てる。漫画『宇宙兄弟』でシャロン月面天文台が完成するのは2029年のことです。では現実の世界では? アメリカを中心とした国際月探査計画「アルテミス」によって月面開発に再び注目が集まり、月面天文台計画はいくつも提案されています。日本にも、TSUKUYOMIという計画があります。2029年にシャロン月面天文台ほど大規模な施設を作るのは実際には困難でしょうが、しかし確かに『宇宙兄弟』の世界を追いかけるように現実も動きつつあるのです。
もちろん月に天文台を建てるのは簡単ではありません。技術的にももちろんですが、電波天文台を建てるに値する(月面の)環境を守ることもまた、一筋縄ではいきません。『宇宙兄弟』では描かれなかった月面の環境保全について、ここではご紹介してみたいと思います。
なお、月面天文台については約2年前にもこのnoteで記事にしました。今回はそのアップデート版(完全版?)という位置づけです。ご関心のある方は以前の記事もあわせてご覧ください。
なぜ月面に電波望遠鏡を建てたいのか
月まで行くのは大変ですし、そこに大規模な天文台を建てるのはさらに大変です。それでも天文学者たちが月面電波天文台を構想するのは、そこでしかできない観測があるからです。それを可能にするのは、月特有の2つの環境です。
ひとつは、月に電離層が無いこと。地球には高度70 km以上のところに「電離層」と呼ばれるプラズマの層があります。これは、太陽から来る紫外線が大気に含まれる酸素原子などにぶつかって電子を弾き飛ばして作られるもの。月には大気が無いので、電離層もありません。(厳密にいえば電離ガスはあるものの、地球の電離層に比べれば何桁も希薄なので、無いに等しいといえます。)電離層は、周波数の低い(波長の長い)電波を反射する特性があります。このため、宇宙からやってきた数十MHzより低周波の電波は電離層で跳ね返されてしまい、地上からは観測が困難です。電離層のない月なら、こうした電波も観測が可能です。また、地球大気に吸収される高周波(数百GHz以上)の電波も、大気のない月なら観測が可能でしょう。
もうひとつは、観測の妨げとなる人工電波が無いこと。19世紀末に無線電信が発明されてからおよそ130年、無線通信無しでは現代生活は成り立ちません。地上の世界には人工の電波が飛び交っています。電波天文学が相手にする天体からの電波は、こうした人工電波に比べるとずっとずっと微弱です。このため、できれば人工電波が無いところで観測をしたい。地球からの電波が届かない月の裏側は、電波天文観測にとって理想的な場所です。国際電気通信連合(ITU)が策定する無線通信規則には、「地球からの電波が届かない月の裏側」として"Shielded Zone of the Moon (SZM)"が以下の図に示すように定義されています。SZMなら、理想的な観測が可能です。
電離層が無いこと、人工電波が無いこと、これらによって地球では観測できない周波数の観測が月面なら可能になるのです。月面天文台でどんな研究を目指すのかについてはまた改めて紹介できればと思いますが、宇宙で最初の星が生まれる前の「暗黒時代」を調べる研究、太陽系外惑星の磁場に関する研究など、天文学の新しい扉を開く可能性がそこにあります。
月面の電波環境を守るための取り組み
そんな魅力的な天文学を可能にする貴重な月面の電波環境ですが、それが貴重であると声を上げなくては守ることはできません。そもそも、月面天文台を作って運用するためにも何らかの通信が必要です。月面基地と宇宙飛行士の通信、月面基地と通信衛星との通信、あるいはGPSのような仕組みも整備されるかもしれません。いずれも、現時点で月面にほとんど存在しない人工電波を使う可能性が高いのです。わざわざ電波天文台を邪魔するつもりの人はいないでしょうが、通信だけしか考えていなければ、電波天文台の存在(可能性)に気づかないかもしれません。このため、既にいくつかの文書でSZMの保全が定められています。ここでは、国際機関が策定した3つの文書を紹介します。
無線通信規則 第22条 Space services
無線通信規則(Radio Regulations, RR)は、国際的な電波の使い方の最も基礎となる文書です。国際電気通信連合(ITU)条約の付随文書であり、国際的に拘束力を持ちます。
その中に、SZMが電波天文学にとって重要であることを述べた条文があります。宇宙での電波利用について記載した第22条のうち、22~25項がそれに相当します。
条文なので若干読みにくいですが、日本語にすると以下のようになります。
22.22 SZMでは、電波天文観測および他の受動業務に有害な干渉を引き起こす放射は、以下の帯域を除く全周波数帯で禁止する。
22.23 a) 能動センサを使用した宇宙研究業務に分配された周波数帯。
22.24 b) 宇宙運用業務、能動センサを使用する地球探査衛星業務、宇宙機搭載の電波送信機を使う電波測位業務に分配された周波数帯。これらは宇宙研究の支援やSZM内の無線通信および宇宙研究伝送にも必要である。
22.25 22.22から22.24で放射が禁止されていない周波数帯では、SZMでの電波天文観測と受動宇宙研究は関連する主管庁との合意によって有害な干渉から保護される。
月面での活動に必要最小限な無線通信を確保しつつ、電波天文観測のためにできるだけ静かな(人工電波のない)環境を守るというバランスが求められます。月での通信はどの周波数で、どれくらいの電波強度で行うのか。また月での電波観測はどの周波数で、ノイズはどれくらいに抑えたいのか。月面での本格的な活動はまだまだこれからですが、未来を見据えてお互いにスペックを考えていかなくてはいけません。
国際電気通信連合 勧告ITU-R RA.479
国際電気通信連合(ITU)は、電波を使った通信などで有害な干渉が起きないように様々な勧告や報告を作成しています。電波天文関連の勧告もいくつもありますが、そのひとつが月面での天文学に関するものになっています。勧告ITU-R RA.479 "Protection of frequencies for radioastronomical measurements in the shielded zone of the Moon"(SZMでの電波天文観測のための周波数保護)がそれです。
この勧告は、先にご紹介した無線通信規則によるSZMの保護とこの次にご紹介する国際天文学連合の決議を出発点として、SZMでの観測環境保護のための具体的な内容を提示しています。勧告は6点からなります。少し長いですが、勧告の本体部分を以下に引用します。
国内、あるいは国際的に電波周波数の使用を計画する際は、SZMでの電波天文観測の必要性を考慮すること。
その必要性を考慮する際に、地球表面では困難あるいは不可能な観測を行える周波数帯に特別の注意が払われるべきであること。
SZMで使われるべき周波数帯は、Annex 1の予備的なガイドラインに従うこと。
深宇宙、太陽-地球系の第2ラグランジュ点、地球を追いかける軌道や月周辺にある電波発信機からSZMに届く放射に特別な注意が払われるべきであること。
SZM内で能動業務と受動業務とで共用する周波数帯では、電波天文観測は有害干渉から守らなければならない。そのために、関連する主管庁間での適切な議論が行われること。
火星や他の惑星で使われる無線通信装置は、SZMで展開されるべきではない。しかしSZMでの近距離接続のための周波数選択は、Annex 1の予備的なガイドラインに従うべきであること。
付属書(Annex)1では、SZMではすべての周波数帯が受動業務(電波天文の他、無線通信規則で定め誰ている受信専門の業務)に利用可能になっているべきであること、宇宙研究業務や観測衛星・GPSやレーダー衛星等に割り当てられた周波数帯とSZMでの宇宙研究のための通信に割り当てられた周波数帯では、例外として電波の発射を受け入れることが記載されています。天文台の運営も含む月面活動に必須の電波発射は、当然認められるべきですね。ただし、周波数の選定にあたっては電波天文側と調整をすること、電波天文にとって重要な周波数での発射は避けることも書かれています。月での電波天文の重要性も周波数帯ごとに記載されていますが、今回は割愛します。この付属書の結論には、2 GHz以下のすべての周波数帯がSZMでの電波天文観測に利用可能とすることが第一要件とされています。さらに、電波天文学者にとって最も受け入れやすいのは25 GHz以上の周波数帯を通信に使うことであろう、とも記載されています。地球上では低周波は電離層と人工電波の影響で観測が困難であるので、低周波は月面からの天文学にぜひ使いたい。比較的高い周波数なら地球でも観測が可能なので、通信はこちらを使ってください、ということですね。一方で100 GHzを超えるような高周波では地球大気の透明度が下がるため、やはり月面のほうが観測には適しています。ですので、電波天文の立場から言えば月面での通信は数十GHz帯(Ka, V, Eバンド)あたりを使っていただくのがベスト、ということになります。
国際天文学連合第22回総会 決議B15
天文学者たちも、昔から月面での天文学の可能性を想定してきました。世界の天文学者の集まりである国際天文学連合(International Astronomical Union: IAU)は3年に1度の総会で天文学の研究を進めるうえで必要な事柄を「決議」という形で定めています。例えば、2006年のプラハでの総会では惑星の定義が決議され、その結果冥王星は惑星の枠から外れることになりました(決議B5 "Definition of a Planet in the Solar System")。月面天文台に関連のある決議は、1994年の第22回総会で採択されました。こちらのPDFの27ページ目にその決議が記載されています。
決議のタイトルは、"Resolution No. B 15 concerning the Bands to be used for Radiocommunications in the lunar environment"。月での無線通信に使われるべき周波数帯についてのものです。月面での、あるいは月周辺での無線通信が天文学を含む宇宙研究で重要になるであろうこと、一方で電波天文観測のために重要な周波数帯では出来るだけ人工電波が無い状態に保つべきであることなどが述べられたうえで、以下の3点を勧告しています。
時間調整を行ったうえで受動業務にすべての周波数帯へのアクセスを担保するため、SZMで必要な能動業務には2つの周波数帯を割り当てること
SZMでの無線通信は2,000~3,000 MHzに限ること
電波天文学と月通信システムとの間で時間調整を行ったうえで将来的な運用を可能にするため、少なくとも1 GHz幅の代替帯域を同定すること
1点目で「2つの周波数帯を割り当てる」としているのは、おそらく以下のような理由でしょう。もしある通信に1つの周波数帯しか割り当てられていない場合、その帯域では電波天文観測がまったくできなくなってしまう恐れがあります。一方で2つの帯域が割り当てられていて、例えば通信機器が1日おきに2つの周波数帯を切り替えることができるシステムになっているとすれば、電波天文側は2日あればすべての周波数帯での観測を実行可能です。time-coordinated basisとはこのことを指しているのだと思います。2つの周波数帯のうちのひとつは2~3 GHzとし、もうひとつは今後特定するというのが決議の2点目と3点目です。
この決議が出たのは1994年。私がこの決議を初めて知ったのは2,3年前ですが、30年前に既に天文学者たちは月面天文台の電波環境のことを考えていたということに驚いたのを覚えています。一方で、現代の高周波・広帯域通信を考えると、SZMでの通信帯域が2~3 GHzに限られるというのは通信側としては不満かもしれません。例えばコロラド大学が構想する月面電波天文台FARSIDEでは、24時間に130 GBのデータを送信することを想定しているようです(参考:"A Lunar Farside Low Radio Frequency Array for Dark Ages 21-cm Cosmology")。これはざっと12 Mbpsに相当します。一方でFARSIDEのNASAへのレポートでは24時間で生み出されるデータは520 GBとあります。この違いの理由は私はまだ把握できていませんが、後者では通信にはKa/Kuバンド(12~40 GHz帯)を使うことを想定しているので、そもそもIAUの決議には沿っていないようです。いずれにしても、月面電波天文台からのデータ送信にどういうスペック(周波数や帯域幅)が必要なのかを、天文側でも議論を詰めていく必要がありますね。もちろん、電波天文台以外でも電波は使われるでしょうから、月開発の全体像を見渡しつつどの周波数帯を通信に割り当てるかの議論が必要になります。
現状を見据えてSZM保護を進めるために
無線通信規則とITU-R勧告、国際天文学連合IAUの決議に示された月面の裏側での電波天文観測の保護についてみてきました。国際的な拘束力があるものもあり、また無線通信を管轄するITU-Rの文書もあり、天文学側からの一方的な要求というわけではなく、既にSZM保護の枠組みはあります。とはいえ、IAU決議は1994年、ITU-R勧告は最新版でも2003年のもので、各国が月を再び目指し始めた現在の状況を反映しているとは言えません。
実はITU-Rでは、勧告RA.479をさらに改訂するための議論が進められています。勧告とは別に、現在の各国の月面天文台構想をまとめた報告書の作成も進められています。2022年にはITU-Rの研究課題としてSZMでの電波天文学が設定され、電波天文学者側がどの周波数を本当に重要視しているのか、天文台の運営に必要な通信はどのようなものかを議論していくことになっています。さらに2027年に開催される世界無線通信会議の議題の一つに、月周辺での宇宙研究活動に新たな周波数を割り当てることが選ばれ、議論が始まっています。国際天文学連合でも、"Astronomy from the Moon"というワーキンググループが作られています。
月開発は、政府宇宙機関だけでなく民間企業も加えた大競争時代に入ろうとしています。月の経済圏ができれば、月周回衛星を使った通信や測位などさまざまな商業活動が生まれることは確実でしょう。その中で以下にSZMの静かな環境を守るか。日本政府の宇宙基本計画では、「月からの科学」の3本柱のひとつとして天文観測(月面天文台)が挙げられていますから、これは日本の宇宙政策にとっても重要な事柄です。月からの電波天文観測の重要性を訴えながら、以下に通信と共存できるか。議論は今まさに進みつつあります。
ヘッダのイラストはDALL-E 3 (Microsoft Bing Image Creator)によるものです。多くの月面電波望遠鏡計画ではパラボラアンテナではなく直線的な棒からなるダイポールアンテナが使われる予定ですが、AIさんだとどうしてもパラボラアンテナにしたいようです。