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聖断と毒ガス

執筆:neten株式会社 取締役  阿蘇安彦
 
昭和十九年の夏、
すでに戦局は敗色が濃厚であった。
 
しかし、「大本営発表」は、
戦地の実情と異なる発表をして、
戦線拡大を追求するのみであった。
 
このままでは日本が危ない。
 
必然的に、国体護持のため、
軍部政権を退陣させる計画が浮上した。
 
そして、その主要メンバーに、
私の祖父がいた。
 
私が小学生の時に他界したため、
どのような思いで渦中にいたか、
直接話を聞いたことはない。
 
しかし、ありがたいことに
当時の活動の記録が、
いくつかの書籍や資料に残っていた。
 
—————
 
祖父、牛島辰熊は、
熊本県出身の柔道家だった。
 
今の全日本選手権にあたる大会で
数度優勝し、当時は皇宮警察や大学で
柔道師範として活躍をしていた。

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その弟子には木村政彦という、
15年間無敗を誇る
不世出の柔道家もいた。
 
一方で、国士として
石原莞爾が主催する
「東亜連盟」の幹部としての活動にも従事した。
 
石原莞爾は、
満州事変を計画、実行をした張本人で、
「世界最終戦論」という軍事研究を行っていた。
 
その内容は、
軍事力の進化は破壊力が極限に達し、
これ以上戦争ができないところまできてはじめて、
世界が一つになり、恒久平和の世界に突入する
という予測が元となる。
 
そして、その時代の指導精神は
資本主義でもなく、共産主義でもない、
「王道主義」であるとするものであった。
 
東亜連盟運動というのは、
「世界最終戦論」を基礎として、
 
・政治の独立
・軍事の共同
・経済の一本化
・文化の交流
 
の四原則によって
東アジアを一体化する運動であった。
 
また、内政的には、
 
・都市解体
・農工一体
・簡素生活
 
の実践を推奨した。
 
昭和十九年六月一日、
「東亜連盟」の活動を通じて
かねてから親交があった
大本営参謀の津野田知重より
連絡があった。
 
大本営参謀である
津野田の立場でしか知り得ない
戦局の情報を聞かされた牛島は、
 
一夜を語り合い、
「どうやら命をかけて
国の大掃除をしなけりゃならん時が来たようだな」
と力強く言った。
 
それから津野田は三日三晩で
戦局に対する絶望的な見通しと批判、
打開策について、
「大東亜戦争現局に対する観察」
という意見書にまとめた。
 
その中には当時の軍部政権、
東條内閣を退陣させることの
必要性が書かれている。
 
「大東亜戦争現局に対する観察」は、
全部で九通作成し、皇族をも巻き込み、動き出した。
 
皇族からの上聞、陛下の聖断、東條の退陣と
筋書き通りに事が運んでくれればいいが、
なかなかそうはいかない。
 
第二案として、非合法ではあるが
「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」
と欄外に書かれていた。
 
石原莞爾は、
「今の状態では万事が手遅れだ」
といい、
 
非常手段の東條暗殺の箇所に
赤鉛筆で「斬るに賛成」とした。
 
しかし、時の総理大臣である
東條の身辺警護をかいくぐり
短刀やピストルを使ったのでは
失敗の可能性が高い。
 
成功率100%の方法として浮上したのが、
「茶瓶」と呼ばれていた毒ガス兵器だった。
 
それを使えば、
五十メートル四方の生物はたちまち
死滅してしまう。
 
従って、これを使用したものも確実に死ぬ。
 
「じゃあ、それを是非手に入れてくれ、
決行は俺一人でやらせてくれ」
 
と牛島はいい、
「茶瓶」を使用する場所について、
 
他に及ぼす被害が少ないところ、
投擲するのに都合の良い地勢など、
入念に調査を進めた。
 
東條英機が乗る改造オープンカーは、
祝田橋へ向かう直前の曲がり角で
車が徐行してスピードが落ちること、
 
7月25日に重大な御前会議が
開かれることをつきとめ、
実行場所と決行日が決まった。
 
疎開した家族に別れを告げ、
準備万端をすませた
7月18日の午後だった。
 
皇宮警察署の部長室で談話中に、
東條内閣総辞職の知らせを聞いた。
 
あぁ東條退陣!
 
陛下の聖断が下されたのだ。
 
非合法の手段を取らずに済んだことを
とりあえずは喜んだ。
 
しかし、暗殺計画は憲兵に漏れ伝わり、
9月4日に逮捕・拘留されることとなった。
 
その後、空襲の影響で軍法会議の公判が延びていたが、
死刑を覚悟し、兄との面会時に子供達に遺言を口述して
書き留めていた。
 
「臣辰熊は国体護持の行動が国法にふれ東京陸軍刑務所に拘置せらる。
我が死後、国体の変革する時は、爾等は自給自足のできる農夫となれ、武道を励み、村医となるは差し支えなし、決して役人にはなるな」
 
昭和20年3月24日、判決の日を迎える。
 
すでに東條の権力が失墜した時分であり、
法廷でも憂国の志を認められ、刑は軽く、
禁錮1年6ヶ月、執行猶予2年の判決を受ける。
 
公職である一切の柔道師範を辞することになり、
保釈後は、郷里の熊本に引き上げ、終戦の日を迎えた。
 
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武道家として、国士として
激動の時代を生き抜いた祖父は
その後の日本人のあり方に
どのような思いを持っていたのだろうか?
 
今回書かせていただいたことは、
国体護持のためとはいえ
現代では自爆テロリストだと
批判もあるかもしれない。
 
しかし、祖父に限らず、
命を懸けて国を護ろうとした方達のおかげで
私たちの今はある。
 
戦争の話を聞くと、
無念のうちに亡くなった戦没者の
鎮魂・慰霊を忘れてはならない、
と感じる一方で、
 
現代に生きる我々は、
世の中が便利になるにつれ、
生と死の実感が希薄になっているのではないか
と危惧する。
 
日本精神の根源ともいえる
いのちを祀る教えと技術は、
世界平和のためにも
これからますます、
必要とされることになるであろう。
 
最後に、形見として譲り受けた、
祖父の書には
「神武不殺」
と書かれていたことを
お伝えさせていただく。

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【阿蘇安彦(あそ やすひこ)プロフィール】

neten株式会社 取締役。
空手の指導員、フィットネスインストラクター、貿易業、フラワーエッセンスの輸入販売、生体情報測定機器及び水の研究・開発・販売などを経て、七沢研究所へ。
「生命(イノチ)の可能性を最大限に発揮させる」をテーマに、「水とエネルギー」の研究及びに、「祓い・鎮魂・言霊」の普及活動を行っている。

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