「慢心しない」 とは? 〜2020年4月13日 はふりめく〜
講 話:一般社団法人 白川学館代表理事 七沢賢治
要約編集:Parole編集部 文責 大野靖志
【こちらの記事は全文を無料公開させていただいています】
皆さん、こんにちは。Parole編集部です。
本誌Paroleは、昨年12月に設立された弊社ラボラトリオ株式会社が運営しております。
代表取締役・七沢賢治は、グループ企業、そして自らが代表理事を務める一般社団法人・白川学館の会員様に向けて、毎朝、おもにスタッフからの質問に対して答えるという問答形式で講話をおこなっています。
その内容は『はふりめく』という名称で、メールマガジンなどを通じて公開させていただいておりますが、この度、弊誌Paroleにおいても、要約版というかたちで、期間限定にて公開させていただく運びとなりました。
宇宙の成り立ちなど、科学的分野から時事問題、ふと浮かんだ個人的な疑問まで、多岐にわたるテーマについて七沢賢治が語ります。
またこちらの記事は、折しもParole創刊以来、100本目の記念すべき回にあたり、これまでの情報の”網羅”の段階を経て、今後Paroleがよりいっそう大きく進化していく段階に入ったことを示唆するものでもあります。
それではさっそく、七沢代表による『はふりめく』の要約版の初回記事を、どうぞお楽しみくださいませ。
慢心とは、ひとつの感情、情緒の一面だといえる。
一般的には、心がひとつの思いや事で満杯になってしまった状態のことを指す。
以上を踏まれば、「慢心する」とは、ひとつの情緒、あるいは感情でいっぱいになって、ひとつのことに囚われている姿だといえる。
人の心は「こころ」という言葉の通り、一箇所にとどまることなく、コロコロと転がって移り変わるという特徴がある。
これを「慢心」という観点から見れば、どこかに止まってしまう=その感情にとらわれてずっと動かない状態で、「その気持ちがすべて」ということになってしまうのだ。
しかし本来の人間の心というものに立ち返れば、心は転がるもので、瞬間瞬間に変わってゆくものであるということが理解できれば、ひとつの感情、情緒にどっぷりと浸かるのではなく、そこから一歩引いて、客観的に自分の心を捉えてみること。また今の自分がどのような感情にとらわれているのか、静かに心の内を見つめてみることが大切であろう。
自分の感情を客観的に見るための装置としては、「神魔人獣」の曼荼羅があるので、こちらを活用してみるのもよい。
(※神魔人獣曼荼羅とは、人間の有するありとあらゆる感情を網羅して曼荼羅状に表現したもの。下図参照)
この曼荼羅の中を瞬間瞬間で移動していくのが、心の本質である。
白川では、神を迎えることを「神人一如」といい、この教えを学ぶ者一人一人がその境地を掴むことを目指しているが、神の境地をひとたび得ることができたとしても、その状態でずっとい続けることはできない。むしろそれは、不可能であるといえる。これはまた、ずっと人が人の階層にいることができないということにおいても同様である。
つまり「体・情・魂・霊・神」の五階層を瞬時にワープできるという自在性、あるいは状況に応じて、目の前にいる人にあわせて自由に階層を選択、上り下りできるのが、白川の極意であるといえるだろう。
そのような意味で、この教えを学び神の境地を掴み体感を得たことで「自分は神という存在とずっと(永遠に)一体である」と錯覚し、無意識にも奢りの気持ちが湧いてくるのが、いわゆる慢心であり、慢心しやすい状態を生み出す罠であるといえるだろう。
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【七沢賢治プロフィール】
1947年 山梨県甲府市生まれ。早稲田大学卒業。大正大学大学院文学研究科博士課程修了。伝統医療研究、哲学研究、知識の模式化を土台とした情報処理システムの開発者、宗教学研究者。
言語エネルギーのデジタル化による次世代システムの開発に携わる一方、平安中期より幕末まで白川伯王家によって執り行われた宮中祭祀や神祇文化継承のための研究機関である一般社団法人白川学館を再建。現在、同学館代表理事、株式会社ラボラトリオ 代表取締役などを務めている。
『なぜ、日本人はうまくいくのか? 日本語と日本文化に内在された知識模式化技術』(文芸社)、『神道から観たヘブライ研究三部書』(小笠原孝次著/七沢賢治監修)、『龍宮の乙姫と浦島太郎』(小笠原孝次・七沢賢治共著)など、監修書・著書多数。