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(小説) ゆらぎ(前編) 22.敵前逃亡

                           22. 敵前逃亡

    「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、
     逆に、
     人間の社会的存在がその意識を規定するのである」
                 カール・マルクス

それ以来、巧は、こどもらしい元気さがなくなっていった。
小学校に入学しても、ほとんど何も記憶に残っていない程、学校生活に身が入っていなかった。すべてに、うわの空だった。

幼児から幼稚園までの出来事の方がよっぽど印象に残っていた。

僅かに記憶していることは、巧が虐められていたことである。

体育館で、同級生に突然投げ飛ばされて、肩の骨を折った。何か、ケンカを売ってきたのだろうが、巧は相手にする程の元気もなかった。投げ飛ばされるまま、床に叩き付けられ、骨折した。
状況を聞いた母親が、巧に怒った。巧が男らしくないことに。
自分の体のことだが、巧にとっては、どうでもよかった・・。

母が厳しかったので不登校ではなかったが、勉強にやる気はまったくなかった。いつも、なにか、考えごとをしているような、うわの空といった感じだった。
教室で、ぼーっと外を見ていることが多かった。

先生が母親に連絡して、母親が小学校に呼び出されたくらいだ。あの「物」の「事件」が話題になったようである。先生も、どうしようもなく、積極的な指導はなかった。なす術もなかった。

当然、成績は、よくなかった。と言うか、最悪だった。
巧にとって、勉強もどうでもよかった。
巧のなかでは、勉強どころではなかった。
あの「事件」までの記憶は、幼児のころまで(瞬間的には0歳の時の記憶も)鮮明に残っているのに、なぜか、小学校1年頃の記憶は殆どない。

ただ、悪いことには、白川の家の近くの駄菓子屋で、店番のおばさんが見ていないスキに商品を盗ったことがあった。それは記憶している。ばれなかった。ばれたとしても、そのおばさんが知らないフリをしたのかもしれない。それでも、それ一回限りだった。いや、二回やったかもしれない。それがどうしても欲しかったわけではない。理由はない。ただ、なんとなく・・。

近所のともだちと遊んでいても、平気で嘘をついた。たわいもない嘘だが、平気で嘘をついた。
嘘は、ばれる、破綻するものだが、なんの気にも留めず、嘘でも本当のことでも、巧にとっては、どうでもいいことだった。ともだちは、当然離れていく。それでも巧は、なんともなかった。笑顔がなくなっていた。

小学校入学以来、なおみとは、遊ばなくなった。
なおみと巧の母親も、そう仕向けたかったのだろう。
ただ、会うと、なおみは、親しげにニコニコしていた。何か言いたげに。なおみの笑顔が、とてもかわいらしかった。しかし、なにも話さなかった。

少し知的障害のあるお兄ちゃんの方と遊ぶようになり、巧は卑劣にもお兄ちゃんを騙して、玩具を奪ったことがあった。そのお兄ちゃんが、「地球ゴマ」の玩具を持っていて、それが欲しくてたまらなく、ことば巧みに騙して自分のものにした。母親が気付いて、「返しなさい」と言われ、「返した」と言いながら、実は、壁の穴の中に隠し持っていた。取り出して、遊ぶわけでもなく、ただ隠し持っていた。

巧のこころは、荒んでいた。

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父親には、変化があった。

ある日、会社関係と思われる男のひとたちが数人家に来て、何か父親と深刻な話をして、帰り際に、真剣な怖い顔で、巧に向かって「きみのお父さんはたいへん立派なひとだ!」と力強く何度も言った。あまりにも真剣な眼差しなので、怖くなり、巧は泣きそうになった。

男のひとたちが帰った後、父親の顔が青ざめていた。何か、酷く戸惑っているようだった。オドオドしていた。あんな顔は、初めてだった。
母親も、深々とお辞儀をして、見送った。
何の話だったのかは、巧には分からない。

ちょうど、この頃、三井三池争議は「決戦」直前状態だった。会社側も労働組合側もピリピリしつつ、裏でも、つば競り合いが激しく交わされていたのだろう。その一環だったのかもしれない。会社側からの。

労働争議の表側では、第一組合(本来の労働者の立場に立った原則的な労組)と、第二組合(会社側が「飴と鞭」で第一組合の労働者を切り崩してでっち上げた御用組合)の組合員どうしが文字通り、角材を持って武力衝突を繰り返していた。流血の騒乱である。その後の学生運動のゲバ棒の初めである。

面白いのは、どちらも本質的には「職場死守!」のスローガンだった点である。「労働」に対する見方の違いと言えば違いであろう。要求は同じなのに、現実の行動はゲバ棒での殴り合いになるところが人間の性(さが)であり、悲惨である。

会社・資本・国家権力は、高みの見物である・・。

ピケを張っていた第一組合の組合員が、会社側の息の掛かった暴力団に刺し殺された。火に油を注ぐようなものだった。対立は、余計激化した。
まだ日本の労働組合には、全国組織で、社会党に支えられた「総評」があり、全国動員を掛けられる力があった。

九州の小さな地方都市「大牟田」に日本全国から「総評」傘下の労働組合の労働者部隊や、意識の高い市民運動系の活動家たち、大学の新左翼の党派の部隊も多数駆けつけていた。この時はまだ、共産党・民青系のひとたちも多数いた。第一組合の労働者の家家に泊まり込んで闘争に参加していた。文字通り、「総資本対総労働」の決戦の場と化していた。

巧には、父親と母親が何を話して、どう決めたのかは分からない。
ただ、はっきりしてるのは、この事件(会社関係と思われる男の来訪)直後、父親は、『東京本社栄転』になったことだ。
争議の最大の山場「ホッパー決戦」と、その後の第一組合の歴史的敗北に至る直前である。
政治問題と化していた。政府も並々ならぬ関心を持って、積極的に介入してきた。
敗北の原因については、述べるのをよそう。いろいろ言いたいことは山程あるのだが。
・・ただ、会社・政府側の、国家権力の暴力装置である警察権力を背景にした恫喝と並々ならぬ決意の前に、多数の負傷者を恐れた第1組合側が、「(第1組合員を狙った)不当解雇」「大量解雇」を容認したことだ。
第1組合の敗北である。・・(異論はあるだろうが)

争議と何か関係があって、『東京本社栄転』になったのだろうか。多分、そうだろう。
『東京本社栄転』の割には、あの父親の青ざめて暗くオドオド戸惑った顔はなんだったのだろう?それほど、大きなことだったのだろうか。

父親の親戚と、母親の親戚の両方から『東京本社栄転』送別会の宴が催された。どちらも、飼っていた鶏を潰して、盛大な料理が用意され、酒宴は賑やかだった。
しかし、参加者の誰も皆、『東京本社栄転』の真の「意味」を知っていたのだろう。だから、余計に『栄転』をクローズアップして、踊りまで酒の席で出たくらいなのだから。父親には、もう戸惑いの表情は皆無だった。本気で、自分の『栄転』だと思い込んでいるようだった・・。少なくとも、そう見えた。巧には。自慢気ですらあった。・・居直った・居直り切ったのだろう・・か。

母親は、自分の両親と別れて遠くに引っ越すのが寂しそうだった。今程交通の便はよくなく、「東京」は、遙か遠くだった。

そのおとなの会話で、巧は小耳に挟んだ。
巧の幼児体験が深刻で、日に日に暗く荒んだ性格になっていくのを心配した両親が行った苦渋の決断だったとのこと。

・・敵前逃亡の言い訳、心理学で言うところの「合理化」なのは明白だろう。少なくとも父親の深層心理にとっては。

ただ、巧にとっても、『地獄』である「大牟田」から離れられるのは、少しうれしいことだったのは確かである。なんの執着も、執着すべき理由もなかった。

しかし、巧と父母にとっては、自覚してなかったとしても大きな矛盾があった。本質的には。

巧は、三池労組の「解放区」である炭住で育った。つまり、巧は、母親に背負われて、労働歌、インターナショナル、赤旗の波・赤い鉢巻きの三池主婦会のデモ行進のシュプレヒコールを子守歌にして育った。母親の真意(いやいや強制動員されていた)・こころの中とはまったく無関係なところで。
巧にとっては、第一組合(本来の労働組合=「社会主義の学校」マルクス)の姿こそが原風景だった。理屈抜きの「正義」だった。これは、巧の深層に染み着いていた。
なによりも、社会主義の学習会である「向坂学校」に熱心に通っていた頃の自称「組合活動家」の父親の活き活きした姿こそが、巧にとってはあるべき父親の姿だった。
これは、どうしようもないことである。

白川社宅(会社側・御用労組側の避難先)に引っ越してから、父親が豹変した。我が子「巧」を錦の御旗にした母親と親戚に強要された、父親の苦渋の選択だったのだろうが、父親にとっても、大きな矛盾だった。

大争議の裏側の生活者レベルで、巧は、ひとの「地獄絵」をなんども体験した。幼児にとって、引き受けるにはあまりにも大き過ぎて、残酷なことだった。
偶然だろうか?
偶然にしては、大きすぎる『地獄絵』だった。幼児にとっては。

確かに、それは大争議故だった部分も大きいのだろう。それを、親として心配してくれたのも分かる。
そこに嘘はない・・と信じたい。

しかし、あまりにも大きな矛盾を抱えていた。巧と父親、そして、母親にとって。

・・・矛盾は、歪を生むものである。

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