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私と朝鮮語・・自己紹介

1.不思議な体験・・朝鮮語との出逢い
2.初めての海外旅行ソウル
3.市民団体「日韓の反原発を結ぶクルビの会」主宰の韓国語学習会からアジア文化会館韓国語講座
4.韓国伝統音楽サムルノリのホンジュソンとの出逢い
5.韓国人写真家黄憲萬(ファンホンマン)との出逢い
6.韓国反原発の現場交流と研究会
7.韓国舞踊の舞台撮影
8.韓国語学習会開催
9.原点の「朝鮮(語)」に帰ろう

1.不思議な体験・・朝鮮語との出逢い

50数年前、道を歩いていると、不思議な体験をしました。道路工事現場のおじさんたちが何か話しているのですが、何を言っているのか全く分かりませんでした。「あれ!?頭がおかしくなったかな!?」歩みをゆっくりして、耳を澄ましました。それでも、何を話しているのか分かりませんでした。

後から、ひょっとして朝鮮語?・・これが、私が生まれて初めて朝鮮語と出遭った瞬間でした。
「韓国語」という言い方が今では一般的なのでしょうが、本来、朝鮮民族の言葉である「朝鮮語」という言い方の方が正しいですが、「韓国語」が定着してますので、この言い方を否定しません。

当時は、未だNHKのハングル講座もなく、書店に行っても朝鮮語のテキストは殆どありませんでした。神田の左翼系の書店に行き、朝鮮民主主義人民共和国の薄いテキストをゲットしました。独学では殆どモノにできませんでした。

しばらく忘れていたところ、NHKハングル講座が始まりました。職場の同僚に誘われてラジオ&テレビのハングル講座に取り組みました。誘ってくれた同僚は、直ぐにやめてしまいましたが、私は、数年、気合いを入れて取り組みました。

2.初めての海外旅行ソウル

生まれて初めて行った海外は、韓国ソウルでした。年末の格安ツアーで、まだ幼かった長男を連れて行きました。
当時、飛行機は極低空でソウルの街の上を通過して金浦空港(仁川は未だ田舎の漁村でした)に着陸しました。NHKハングル講座で、スキットで目にしたハングル文字で現実に生活している街を上空から眼にした時は興奮しました。金浦空港の第1印象は、「キムチ臭い!」でした。

格安ツアーなので、観光はまったくなく、自由行動だけでしたが、それがよかったのです。ソウルの南大門・西大門で、露天商のおばさんを相手に韓国語で話す練習をしました。
驚いたのは、当時、ソウルのど真ん中に未だゴミの山があったことでした。
日帝時代の遺物、朝鮮総督府のバカでかい建物が未だありました。地下鉄に乗っていると、大声をあげて男のひとが走り抜けました。行商のひとでした。混雑している電車に乗ると、座っているおばさんが、私のカメラバッグを無言で奪って膝に載せました。最初驚きましたが、親切心からのことだと直ぐに分かりました。地下鉄の車内放送・市場の呼び込み・食堂の話し声・・すべての朝鮮語が新鮮で、ワクワクするものでした。

3.市民団体「日韓の反原発を結ぶクルビの会」主宰の韓国語学習会からアジア文化会館韓国語講座

市民団体「日韓の反原発を結ぶクルビの会」主宰の韓国語学習会に参加しました。当初30人以上いた生徒が最終的に2人になりました。先生2名(ひとりは韓国人留学生)生徒2名という理想的なクラスでしたが、運営出来なくなり、先生が所属しているアジア文化会館の韓国語講座中級クラスに編入しました。直ぐに最上級の演習クラスに進みました。テキストはなく、先生が韓国のハンギョレ新聞を持って来て、好きな記事を訳して発表し、議論するという授業でした。

4.韓国伝統音楽サムルノリのホンジュソンとの出逢い

アジア文化会館の朝鮮古楽器小太鼓チャングの講習も受けました。
文化交流の韓国夏合宿にも息子と一緒に参加しました。東京外国語大学の韓国語専攻の学生たちや、自由の森学園の高校生たちも一緒でした。
そこで知り合った韓国伝統音楽サムルノリのグループを率いていたホンジュソンと親しくなりました。「サムルノリ」のキムドクスが、本来、韓国農村の大衆音楽を舞台に上げて「芸術」にしたけれど、自分は本来の大衆文化・農村文化としてのサムルノリをやりたいと熱く語ってました。ホンジュソンが即興で演じてくれたタルチュム(仮面劇)に感動し、エンターテイナーとしての彼の天才を確信して、彼を撮るためにニコンの一眼レフカメラをゲットしました。
暫くして、ホンジュソンが交通事故で亡くなったことを知らされました。
韓国語の先生と一緒に、ホンジュソンの故郷南海島に行きました。静かな海と静かな山寺に眠るホンジュソン・・・。

5.韓国人写真家黄憲萬(ファンホンマン)との出逢い

その日、高速バスでソウルに戻って、運命の出逢いがありました。韓国語の先生が留学していた頃の友人である民俗学者チュグァンヒョン先生と一緒に、先生の友人の著名な写真家黄憲萬(ファンホンマン)先生の写真スタジオを訪ねました。
翌日、両先生と、黄憲萬先生の弟子ウォンチョル(後に著名な写真家となる)氏と一緒に、ヨングァン近くの農村の大満月日(テーボルンタルナル)の村祭りの撮影に同行させてもらいました。ホンジュソンが言っていた農村文化としてのサムルノリを撮りました。韓国語の先生は、用事で行けなかったので、初めて日本人ひとりで韓国人だけの社会に投げ出されました。最初怖かったですが、この経験は、私の朝鮮語の力を伸ばしてくれました。
その後、黄憲萬先生と一緒に、韓国民俗写真を撮りに行ったり、ムーダン(韓国シャーマン)の写真を撮りに行ったり、スタジオ撮影(コマーシャル・ファッション)や、美術館でのブツ撮りに同行させていただきました。黄憲萬先生は、私の写真の師です。

6.韓国反原発の現場交流と研究会

韓国の反原発団体、環境運動連合とも交流しました。韓国反原発の現場の活動家とも交流しました。日本では、韓国文化・社会の研究者仁科健一先生と、原子力資料情報室の韓国担当の大林ミカ氏と3人で、韓国原発に関する新聞記事の翻訳・研究会をやりました。

7.韓国舞踊の舞台撮影

こういった流れから、韓国伝統舞踊の舞台撮影も多数取り組みました。在日の韓国舞踊家趙寿玉(チョウ・スオク)を張り付いて撮影しました。前述のキムドクスサムルノリの、芸術劇場での日本公演を撮影したり、宋和映(ソンファヨン)の日本・韓国での公演を張り付いて撮影したり、人間国宝の林洱調(イムミジョ)の日本公演を撮影したりしました。フィルム時代に舞台公演の撮影は、とても大変な作業でした。デジタルになり、苦労から解放されると当初思ってましたが、「写真」自体が根本的に変化したのだと思います。デジタルでも撮りましたが、何か肝心なものが欠けており、次第に撮らなくなりました。私にとって舞台撮影は、「モノクロフィルム & 自家現像」なのです。

8.韓国語学習会開催

私が朝鮮語を始めた頃は、朝鮮語はとてもマイナーでした。韓国人との交流も少なかったです。釜山に初めて行った時、韓国人青年から「生まれて初めて日本人と会った。」と言われた程です。その後の「韓流ブーム」は信じられない現象で、私自身は関わりないものです。
あまのじゃくな性格なのかもしれませんが、「韓流ブーム」に連れて、次第に韓国との繋がりが減少していきました。
そんな中、行政に「ドイツ語講座」の「まちの先生」の登録をするのと並行して、別途、プライベートに韓国語学習会を開催しました。数回レッスンをしたところで、コロナ問題が起きて、結局中断したままです。

9.原点の「朝鮮(語)」に帰ろう

今、自分にとって「朝鮮語/韓国語」は何なんだろう?と思案してます。
当然、この間ずっと、韓国社会・北朝鮮にも注目し続けてます。日本と同様に、韓国社会も80年代~現在に至る迄、「近代化」の道を進んでいます。私個人的には、88年ソウルオリンピック前の韓国社会・韓国の地方都市の方が大好きです。「近代化」を問い直すという私のテーマにも合致しますし、今だからこそ、自分にとっての韓国・(北)朝鮮を問い直し・反芻するのも意味深いかと思い至りました。

上述のように、最初のテキストは北朝鮮のものでした。これは偶然ではなく、私の朝鮮・韓国(語)の基層には、政治体制には反対ですが、北朝鮮への関心があるのだと思います。今の政情・地政学的にも「北朝鮮」は無視できないものです。なによりも、朝鮮民族に対する思い入れも少なくないです。
朝鮮・韓国(語)ウォッチングを、今までの「総括」・反省も含めて取り組んでいきたいと思います。

  写真は、黄憲萬撮影作品

22.Sep.24





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