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「哲学」という『語訳』

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「哲学の徒は市井の中に身を紛れつつ、こころ異邦人の如く、真理の秘密に生きねばならぬ。」   井上忠「プラトンへの挑戦」p7
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ここで言う「哲学」は、"philo-sophia"の意味でしょう。決してone of them の一つの「学」と堕した"philo-sophia"でないことは一目瞭然!

「哲学」という『語訳』が、日本人にとって"philo-sophia"のイメージをどれ程歪め続けていることか!

先ず、"philo-sophia"は、「学」でないことは明らか!
"philo-sophia"は、ある種の人間の、生の全体を掛けた「世界」に対する態度表明ではないでしょうか。

「哲学」容認派(?!)も(アリストテレスも)認めるように、タレスが「水!」と言った時の状態は、決して「学」ではなく、ある種の人間の、生の全体を掛けた「世界」に対する態度表明ではないでしょうか。この「ある種の人間」のことを"φιλόσοφος" 「フィロソフォス」(「哲学者」)と呼んだのでしょう。

しかし、言語は恣意的であり、「使ったもん勝ち」プラグマティックには「正しい」語用と認めざるを得ません。但し、その限りで、「哲学」は誤解され続けていかざるを得ないのでしょうが。

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「哲学にあっては体系の底に秘められた観照の位相、諜者到達の地点こそは問題」井上忠「プラトンへの挑戦」p9
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この「観照の位相、諜者到達の地点」こそ、「哲学」を真の"philo-sophia"『哲学』たらしめる必要条件なのでしょう。それがある故に、タレスは"φιλόσοφος" 「フィロソフォス」(真の「哲学者」)なのでしょう。

日本での「哲学」の語用法と欧米、特に欧州での"philo-sophia" の語用法に違いがあるようです。その証拠に、欧州には、「哲学」出身の「物理学」者が少なからずいますが、日本では極少数派なのではないでしょうか。むしろ、「哲学」との違いを強調する「物理学」者が大多数かと思います。

この原因の端緒は、ひたすら、「哲学」という『語訳』にあるのではないでしょうか。
18.Nov.24 あまりにもあいまいな-レジリエンシ


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