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中島敦「セトナ皇子」の疑問は『philosophia(哲学)』の初まり!

中島敦に「セトナ皇子」という作品があります。

要するに、世界開闢 説であり、
a) (世界 開闢は) 何故 在っ た か。
b) (世界 開闢は) 無く ても 良かっ た ろう に。
という疑問です。
幼児・子供の頃、こんなこと思ったことありませんか?
日常・現実の彼是(あれこれ)や些事(さじ)に感(かま)けて、何時しか、こんな疑問は『馬鹿げた』ことにしてしまい、こんな疑問自体消失させて生きているのが「大人」であるという「常識」にしてしまっているのでしょう。
こんな『馬鹿げた』テーマを想起させてくれた中島敦に感謝します。

『philosophia(哲学)』の初まりではないでしょうか!?
タレスを「タレス」にしたのは、「セトナ皇子」の疑問ではないでしょうか!?
中島敦も言います。
c) 「(この疑問を持つ者は) 不幸 に 陥る」・・と。
ソクラテスの例の名言とも符合するじゃないですか!?

ソクラテス以前の「自然(存在)」への問いから、せっかくの『philosophia(哲学)』の誕生を引っ剥がしたソクラテス的に言うと(中島敦の別の作品「狼疾記」から)、
d) 人間が生れて来た意味は? (生れて来たことに何の意味もない)
e) 人間の意味は? (人間に何の意味もない)
f) 宇宙の意味は? (宇宙に何の意味もない)
g) 何のために自分は生れて来たんだ?
となるでしょうか。同様に、
c) 「(この疑問を持つ者は) 不幸 に 陥る」・・。

現代風にアレンジすると:
a) 宇宙誕生の理由は何か?
b) 宇宙誕生がなくてもよかったろうに!
c) この疑問は人間を不幸にする。
d) 人類誕生の意味は何か?
e) 人間の意味は何か?
f) 宇宙の意味は何か?
g) 自分は何のために生まれたのか?
・・・・此処迄は、既述の通り。

前回「これらの疑問は、現代物理学「宇宙論」とも重なるのではないでしょうか。」と書いたのですが、科学としての「現代物理学」では御法度なのでしょう。
「思索する人間、"φιλόσοφος" 「フィロソフォス」(「哲学者」)を問う疑問でもあるのではないでしょうか。」・・と書いたのは、そのまま残しておきます。あるいは、「哲学者」と"φιλόσοφος"の分岐点とでもしておきましょうか。この意味では、マルクス・ガブリエルは、「哲学者」という「学者」であるかもしれませんが、決して"φιλόσοφος"ではないのでしょう。

確かに、アポリアなのでしょう。
しかし、我々ホモサピエンスは、この、もっとも基本的なアポリア、最初の『問い』をなんら解決していない、解決しようともしていない、むしろ「触れない」状態で、最先端サイエンステクノロジーの全盛時代を生きているのではないでしょうか。

この『問い』からの「挑戦」を生き抜いた井上忠は、この『問い』解決の端緒に気付いていたのでは?・・と、ふと思いました。
それは、他でもない「最先端サイエンステクノロジー」の発想にあるということを・・。

10.Jan.25 あまりにもあいまいな-レジリエンシー

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