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わたしはどう生きるか

以下「悟浄出世」中島敦からの引用を援用します。

「この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨(みじめ)な一生を送らねばなりませぬぞ。」
・・幼児PTSDを体験しました。これが病因となり、「この病」にかかりました。

「この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。」
・・幼児がよく『なぜ?』と大人に質問しますが、その状態が今に至るまで継続しています。幼児PTSD故。

「究極の・正真正銘の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。」
・・ソクラテス以前の哲学者パルメニデスにこだわるのは、こういうことでしょう。

「そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。」
・・「約束」?  知りません!聞いてません! だから、ほんとうは、わたしは、「生きていけぬ」生きていない「生き物」なのかもしれません。

「ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候じゃ。」
・・「いちばん悪い徴候」はハンパないレベルです、わたし(T-T)

「この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治(なお)すよりほかはないのじゃ。」
・・ネットフリックスとかでよく見るグループカウンセリングに参加しようかとも思ったのですが、「自分で治すよりほかはない」のです。

「よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」
・・わたしにVipassana瞑想を教えてくれた故小杉智(前職場の後輩)は「よほどの機縁」だったのでしょうが、若くして他界しました(T-T)
しかし、彼が教えてくれたVipassanaは、「よほどの機縁」として、わたしのなかに生き続けています。

「古(いにしえ)の真人(しんじん)は、能(よ)く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生(ふしふしょう)の域に達しておったのじゃ。」
・・この「域」に達するのが、わたしの目標であったし、目標であり、目標であり続けるでしょう。わたしの幼児PTSDは、じつは、「真人」になるための試練だったのでしょうか。しかし・・

「そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有(も)つ楽しみもない。無味、無色。誠(まこと)に味気(あじけ)ないこと蝋(ろう)のごとく砂のごとしじゃ。」
・・他者から『逆境フェチ?』と言われるくらいの人生でしたが、じつは、その通りなのです!他者から見たら『逆境』故、一見活き活きと生きているように見えるでしょうが(いわば「戦場」の快楽?)、じつは、「苦しみもない代わりには、普通の生きものの有(も)つ楽しみもない。無味、無色。誠(まこと)に味気(あじけ)ないこと蝋(ろう)のごとく砂のごとし」なのです!

ずっと昔、幼い息子が母親に訊ねました。「おとうさんは、どうして、あんなに活き活きと生きているの?」と。
「普通の生きものの有(も)つ楽しみもない」からこそ『逆境フェチ』で自分を何かに追い込んで、ひっきりなしにピョンピョン飛び跳ねていたのです。
こんな人間が周囲にいい影響を及ぼすはずがありません。かわいそうなことをしました、息子にも。

わたしはどう生きるか・・今ごろになってようやく見えてきつつある自分の生の「意味」を貫徹するしか、しようがないじゃないですか。どうやっても「無味、無色。誠(まこと)に味気(あじけ)ない」「普通の生きものの有(も)つ楽しみ」ではない、自分の『物語』を紡いでいくしか、しようがないじゃないですか。「真の自己」と会えることを信じて。
「能(よ)く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生(ふしふしょう)の域に達」した「真人」になることが自分はできると信じて。


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