古典ギリシア語を何故学習するのか?
数十年前に、古典ギリシア語初級文法を某哲学者に教えてもらいました。
技術系(パルス回路)、分析哲学(ヴィトゲンシュタイン)、科学哲学(数理論理学)出身だったのに、何故、古典ギリシア語なのかと言うと、井上忠を通じて「バルメニデス」と出逢い、ソクラテス以前の哲学に惹かれたからです。
本当は、その後古典ギリシア哲学を専攻したかったのですが、学究の孤独に耐える自信がなかったこと(当時登山に嵌まってました)、日本のアカデミーでは「パルメニデス」を専攻することが難しいこと、それ以前に経済的に無理と判断し(当時、実家は極貧でした)、独和翻訳者になりました。
何故、古典ギリシア哲学かと言うと、幼児PTSD故、「存在」についての疑問を幼児期に持ってしまったのです。
井上忠の「パルメニデス」と出遭って、「これだ!」と悟りました。もっと早く出遭いたかったのですが、ただ、実を言うと、当時、井上忠の「パルメニデス」に批判的だったのです。技術系、分析哲学、科学哲学の立場から見ると、井上忠の「パルメニデス」の解釈に不満でした。知り合いの哲学者から、井上忠がカトリック信者であると知り、「なぁ~んだ。もったいぶった文章書いてても、最後は『神様』かい!」と思ってしまったのです。
しかし、ずっと、頭の隅に井上忠の「パルメニデス」が燻っていました。
独和翻訳者として、テクノロジーのパラダイムシフトを翻訳の現場で体験し、MRI、AI、クリスパーキャスナイン、加速器(素粒子)、量子コンピュータ(量子物理学)の最先端テクノロジーに接するに連れて、「パルメニデス」が自分の中で大きくなっていきました。
そんな最先端テクノロジーの視点から見ても、「パルメニデス」の『問い』は『存在』の本質を突いているのでは、と思います。我々21世紀に生きる人類は、いまだ「パルメニデス」を全く越えていません。
だから、「パルメニデス」を古典ギリシア語の原文から理解したいのです。
井上忠も結局『存在』の『根拠』には、肉薄してはいても、辿り着いてはいないと思います。井上忠も、最先端テクノロジーと「パルメニデス」の根源的『問い』との関連性には気付いていました。
最先端科学テクノロジーの視点から、ソクラテス以前の古典ギリシア哲学者たちの『存在の根拠』への『問い』を吟味したいのです。ポスト「井上忠」の仕事をしたいのです。
これが、「古典ギリシア語を何故学習するのか?」の答えです。
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