よむラジオ耕耕 #02 『なぜギャラリーをやっているんですか』
加藤:パーソナリティの加藤淳也です。
星野:アシスタントの星野蒼天(そら)です。
加藤:前回聞いてくれた人がほとんどだと思いますが、耕やすに耕やすと書いて『耕耕』というラジオです。本来、気軽に楽しめるはずなのに、わりと難しいとされるアートとかカルチャーの文脈を、現場にいる僕らが実感したことや体感したこと、気づいたことを話しながら、あと、みなさんからの声とかお便りを紹介しながら、よりよく安心できる場所を耕すように作っていこうという…なんか宗教じみた話になってない? 大丈夫かな⋯(笑)。要するにもっと気軽に楽しんでもらえたらいいなと思っていて、ちょっとづつ話していけたらなあと思ってるだけなんですよ!(笑)
星野:特に何か深い意味や狙いがあるわけでもないですよね。
加藤:そうそう、偉そうにしたいわけでも有名になりたいわけでもないんです。ただパークギャラリーとか、隣町とも言える北千住にある PUNIO とか、来てくれた時に気軽に楽しんでもらって、ちょっとでも良い時間を過ごしてくれたら僕らとしては嬉しいわけです。
なぜギャラリーをやっているんですか?
加藤:と言うわけで2回目のテーマはなんでしょう。
星野:ずばり「なぜギャラリーをやっているんですか?」です。パークをやってる理由や、なぜパークを始めたのかを改めて聞きたいです。
加藤:ちゃんと話すと引かれるくらい長くなっちゃうんだけど、いつも答えられるように簡単に用意してるのは「アートとか人との関わりを少しでも気軽に、公園みたいに楽しんでもらえたらと思ってパークギャラリーを始めた」っていうところかな。「なぜこの町(末広町)で?」 というのもよく聞かれるんだけれど、この場所で始めた理由については、色々物件とか家賃の都合もあるからっていうのが本音なんだけど、これもちゃんと話すと長すぎて引かれちゃうからまた話すとして(笑)、まず「なぜギャラリーをやっているんですか?」っていうところなんだけど。そもそもギャラリーをやる予定とかは、なかった。
星野:ええ!
加藤:今の僕が、10年前の僕に向かって「ギャラリーやってるよ〜」って言ったら「え、なんで?どういうこと !? 」って驚かれるくらいイメージできていなかったし、むしろ10年前の僕はギャラリーを『敵視』してた。ホワイトキューブで気取ったギャラリー空間がきらいだったんだけれど、それが当時の僕の中のギャラリーのイメージだった。真っ白な空間に等間隔でポツンポツンと絵や写真が飾ってあったりして、ギャラリーっていうのはそういう緊張感がある中で作品を見るイメージだったね。
美術館もそういう側面があるけど、キュレーションにおいてまだある程度のエンターテインメント性があるじゃん。客を呼ぶためにいろいろ工夫している。でも小さい規模のギャラリーになると、偉そうだし、そういう見る人のための工夫はなくなるし、その空間では一言も発せられないし唾も飲めないくらい超緊張する。アート見て考えたフリしなきゃいけないし、あんなに追い込まれた状況でアートってわかるのかな(笑)。なんて言うんだろうな、「ギャラリー」って響きを聞くだけでほんと途方に暮れていたというか。例えば仮に好きな作家がそういうホワイトキューブのギャラリーでやってるとなったら『いち大事』というか、白いシャツを来て襟を立てて行かなきゃいけない感じだったね。
星野:本当に苦手というか、イメージできなかったんですね。
加藤:10年前の話だしあくまで僕の感覚だけどね。でもいまだにそういう感覚の人って多いんじゃないかな。パークみたいな場所でも来る前は緊張するって人がまだ多いと思う。でもお客さんもそうだし、作家さんでさえもギャラリーは緊張するっていう中で、幸い、パークギャラリーは普段のギャラリーのイメージとはちょっと違うと言ってくれる人が多い。気楽というか。
多分いつの時代もギャラリーとか画廊って言われてる場所は、僕らの日常とは一線を画すような場所にはあるのかな。もしかしたら「そうあるべき」かもしれないし、どっちが良いのかっていうのは立場によっても視点によっても違うから断言できないけど、少なくとも僕らは、僕みたいなひとたちは、もしくは10年前の僕は「もっと気軽に楽しみたい!」って思うんだよね。何事もそうだよね。だから僕が例えば本屋さんやレストランをやっていたとしても、できるだけ楽で自由なところにしたいっていうのが、どんなジャンルにもある。それはつまり『僕が行きたい場所』って言うのが前提にあるからだろうね。
東京都江戸川区『平井』
PARK SHOP & GALLERY
加藤:なぜギャラリーをやっているかを語るにあたって、今の末広町でやっている PARK GALLERY の前にやっていた『原点』となっている、東京都江戸川区『平井』時代の PARK SHOP & GALLERY のことをちゃんと話そうと思うんだけど⋯。
星野:同じ PARK でも名前が少し違うんですね。
加藤:うん。まず先週も話したけれど、僕が普段広告とか、ディレクター業をやってるんで、そのクリエイターとのつながりとかディレクションの能力を買ってもらえて、平井にある障がい者の自立支援施設(NPO)からあるオファーを受けるんだよね。その内容っていうのが、ある一つの空間を有効活用して、そこに通ってる『障がい者』=『当事者』と言われる人たちと、下町で暮らす地域のさまざまな世代の人たちにの “ためになるような” 場所づくりをして欲しいって依頼だった。
身体的な障がいではなく、社会で生きづらさを感じている精神的な疾患を持っている人たちがそこに通って、社会復帰のためのさまざまなプログラムを受けられるという施設だったのだけれど、プログラムの一環でみんな絵を描いたりもしていて、その一方で近所のおじさんおばさんたちは寄り合いができる場所を探していたらしく、「みんながコーヒーを飲んだりお茶を飲んだりしている場所に、絵が飾ってあればいいじゃん」て思ったんだよね。今思えば楽観的かもしれないけど、すごくシンプルにそのビジョンがあった。そこに集まれば、ぼくらは障がいへの理解も深まる。当事者は社会との接点を見つけられるし、順応する訓練にもなる。でもそれまでギャラリーを作ったことなんてなかったからいろいろな人の知恵を借りて一緒に作っていこうって思ったんだよね。
いろいろ考えているうちに借りられる場所っていうのがたまたま使われなくなった車庫で、そこをギャラリーとして使わせてもらえることになったんだよね。何からやればいいかわからなかったけれど、とりあえず天井と壁、床を剥がしてむき出しにして⋯なんかかっこいいじゃん、骨組み剥き出しって(笑)。で、壁ぶち壊して、天井抜いて、建築家とか専門家がいたわけじゃなかったけど、有志の友達たちと、興味を持ってくれた障がい者の人たちに手伝ってもらったりしながら、バールでひたすらガンガン既存の壁や天井を剥がしていった。そしたらまあ、なんとなく車庫の骨組みが見えてきて、それで「そういえばギャラリーって白いよね」って言いながら全部みんなで真っ白に塗りましたね。車庫に置いてあった棚とかも白く塗るだけでそれなりの家具に見えた。で、全体を白く塗り終わってペンキが乾いた時に「ギャラリーができたぞ!」って(笑)
星野:そんな簡単にギャラリーってできるんものなんですね。ちゃんとギャラリーやってる人からしたら「そんな簡単なことじゃない!」って怒られそうですけど(笑)。でも、あくまでみんなが集まる場所にするという理由でギャラリーを選んで作ったんですね。
加藤:うん。立派なギャラリーを作るというより、みんなで自分たちの手でできることを全力でやるということが大事だった。もっと言えば障がい者の人もぼくらと変わらずに作業に関われることが重要だった。もちろんその間いろんな人の知恵を借りたけどね。「壁に釘を打って額を飾るなら、壁に木の板を立て込んだ方がいいよ」とか「レールライトでいろんな方向に光を当てれる方がいいよ」とか「レジ必要だよね」とか⋯。コーヒーなんて淹れたことなかったから、友人に教えてもらったりしたな。あと車庫ってシャッターはあるけれど玄関がなくて、だから大工やってる友達にサービスで玄関をつけてもらったりして、いろいろなことをみんなで探り探りやって、2014年か2015年に東京都江戸川区『平井』になんとなく、見よう見まねでがむしゃらにギャラリーを立ち上げたんですよね。
星野:展示する作家はどうやって決めていったんですか?
加藤:その当時仕事で関わっていたイラストレーターとか写真家とか、とにかく知り合いや友達とかを集めてグループ展をやったね。人と出会ってつながるために。そこからどんどんいろいろ人が人を呼ぶというのが続いて、個展をやりたいって言ってくれる人がいたり、こっちからお願いしたりで、言ってしまえば今日までずっとクチコミと偶然の出会いが知り合いづてでつながって7、8年やっている感じだね。
星野:ギャラリーの運営をすること自体難しそうですが。
加藤:最初はやり方もわからなかったから、作家やお客さんに教わることも多かったし、クレームみたいな形で気づくこともあった。例えば作品の額とかを落として壊しちゃって「こうしなきゃいけないんだ」っていうのを実践的に学んだり、作家の代わりに作品の説明ができなくて客を困らせたり、手伝ってくれる人にスタッフに謝礼も払えないし、いろんな方面に謝りながら学んでって今に至ってる。あとはもし自分が客だったらっていうのを常に考えている。学術的な勉強やギャラリーでの修行は一切なく、だからとても胸を張って「アートの現場の第一線でギャラリーをやってる」とは、今も言えないかなぁ⋯。言う必要もないしね。まぁ言ってしまえば自分は専門家ではなく、あくまでファンというか、とにかくものづくりの現場が「好き」とか、アートを見る側の人の感覚でしかやってこれてないなとは今でも思ってる。
星野:なるほど。
加藤:だから、「強いこだわりでパークをはじめてます」て言うと、そうでもないのかなってのがここ最近の1つの答えな気がしてるかな。こだわりとかいらない。まぁでも、そこで展示をして今売れてる作家さんもいるから、「ホップステップ」くらいまではあそこで実績を残した人もいたし、役に立てたんじゃないかなとは思う。あの時なぜか街全体を使ったフェスをやったり、1年間だけど精力的に活動したね。
平井の PARK SHOP & GALLERY から
末広町の PARK GALLERY へ
星野:でも1年で終わってしまうんですね。
加藤:車庫の持ち主の鍵本さんという親切でやさしいおじさんの『立ち退き』って形で終わってしまうんだよね。でも平井のパークはみんなの中で悪い意味で言えばトラウマ、良い意味で言えば衝撃的な伝説の1年だったから「やめないでくれ」って声が多かった。でも正直、俺も1年でかなり疲弊してたんですよ。毎日店番して同時にパソコンで普段の仕事もして、作品が売れればいいけれど、まとまったお金が入るわけでもなく、自腹がずっと続いてく。それに対話にも疲れてた。差別とかそういうことじゃなく当事者と言われる『障がい者』の人、つまり精神的な疾患を持ってるけど社会的な復帰のためにがんばっている人とのコミュニケーションとかが結構大変で、それと並行して、個性豊かなアーティストたちとの会話も、障がい者となんら変わらない突出した個性としてぶつかり合うという意味では同じくらい大変で⋯。それをほぼ全部ひとりで、サポートしてくれるボランティアのスタッフをまとめながらみんなで一緒にやってくってのはめちゃくちゃしんどかったけど、でもそのしんどさが今思えば爆発につながっていったんだろうね。やったる!というか。みんなで泣いて笑って怒って、喧嘩したから仲良くなった人もいっぱいいた。だから、あの時にいた人の中で誰一人あれが1年のうちの出来事だとは思ってない(笑)。2、3年の濃厚な時間を過ごした感覚があったから「あれをあのまま終わらせちゃいかんだろ」っていう、みんなのじわじわと後ろから迫る期待みたいなのを感じながら過ごしていた。
星野:それは期待でもありプレッシャーでもありますね。
加藤:そうそう(笑)。ちょうどその頃、個人的な事情でたまたま引っ越しを余儀なくされて、かつ仕事も手一杯になってたから集中できる事務所も欲しくて、だから『ギャラリー』兼『住居』兼『オフィス』っていう形であれば、家賃的な部分も大丈夫だし続けられると思って「運良く見つかったらやるわ〜」って、はぐらかしてたら運良く見つかったのが今の末広町のパークギャラリーですね(笑)。すぐだった。見つかったはいいけど「またやるんかい!」って思って発狂しそうだった。
星野:そんなに大変だったのにやめなかったんですね。
加藤:正直そこでやめてしまいたいって気持ちの方が強かったけどね。『二律背反』というか、清澄白河あたりに一時的に住む物件を見つけられたんで、そこで優雅に暮らしながら。みんなが応援してくれるし、引き続き探すんだけれど「見つからなければいいな」「そんな都合のいい物件見つかるわけがない」「見つかるな、見つかるな」と思うような数ヶ月を過ごして、遂に見つかったのがこの場所だった。正直『秋葉原』という土地に疑問も感じていたけれど、どうせやるなら東京の東側でやりたい気持ちがすごくあって。
と言うのも東京に来てからというものずっと世田谷在住で、下北とかが遊びの拠点だったし、でもあのあたりって当時からすでにちょっと飽和して感じるというか、新しいものができては消えてって感じで同じことの繰り返しに見えてしまって。アップデートはされてるんだろうけれど、似ているできごとが徐々に回転してるだけな気がして、少し退屈さを感じていたんだよね。言ってしまえば外から来た人たちが、外から資本を持ってきてカルチャーをその場だけで耕しているように見えて、町が変わってもどこも同じことをやっている様な印象を受だったんだよね。そんな土壌のところに、人生を賭けて勝負する場所を構えるのは嫌だなあと。もちろんそんな地域だけじゃないし、いまでも世田谷あたりは好きな街だし、好きな店もいっぱいあるんだけどね。
なぜ東京の東に?
星野:東京の東側にこだわったのは何か理由があったんですか?
加藤:それは新しい文化の隙間で戦火に逃れて昔ながらの街並みや文化が残っている部分とか、アクセスも悪いし、過疎化していてとんでもなく不利な状態なのにファイティングポーズを取ってがんばって店をやってる人が東側に多いなと思ったからだね。地域性や流行にとらわれないで、自分たちのやりたいことをやるって言う姿勢が、東京の東、つまり清澄白河や蔵前からこの辺りに感じたんだよね。職人気質な部分が息づいている街なんだなって。平井も『東』で、実際にあのムードを毎日感じられたのも大きいな。あといわゆる『下町』の方が街の人との何気ない会話がすごく多かったのもあるかな。当時仕事で東京以外の地域に行くことが増えたからそういうところに行くと会話がすごく多いって印象を受けたね。下北沢とかに住んでたりすると会話はあるんだけど、社交辞令に毛が生えたような感じで⋯。下町とか地方って言われてるような場所だと「生きるためのコミュニケーション」じゃないけど、暮らしの延長線上にあるなにげない会話が多かった。平井でパークをやっていた時もとにかくそういう会話が多くて、東京の東にいると、『街の上』で生きてるんだなって感じがしたんだよね。世田谷の喫茶店は誰も話しかけてこないけれど、平井の喫茶店はもうこれでもかっていうくらい話しかけて来る。客も話しかけてくる(笑)。
誰かがすでに築き上げた『街の文化』に生かされてる感じがした世田谷に比べると、自分が生きるためにここに足をつける、自分で文化を耕す、みたいなのを東に感じていたから、当時は東京から東京へ『移住した』みたいなイメージがあった。地方に移住した友人とかみてると、地に足をつける感じが凄くあって、そこで文化を耕している感じがあってそれがすごく羨ましかったんだよね。東京で地に足をつける方法ないのかなって思ってたらそれが『東』だと思った。とはいえ西の人だって移動しながら遊牧民みたいに生きる魅力もあると思う。でも東の人ってずっとその街を愛して地に足をつけようとしてると思って、当時もいまも『東』にこだわったんだよね。
星野:末広町にもそういう「地に足がついた」部分っていうのがあったんですね。
加藤:いざ住んでみたらすぐ近くに『神田明神』があって神輿を担ぐ文化があったし、江戸時代から続いている街のつながりがあって、「僕が欲しかったのはこれだ」とすぐに思った。この場所で、昔からある古い町を基盤に自分たちのカルチャーを上乗せしていくことができたら、東京でやってくことに納得ができるのではないかと思ったたんだよね。『消費』されることなく『流行』に流されることなく、自分の目で見て手と足で活動できる拠点って、東京だと東にしかないかもなと思たんですよ。
星野:文化を耕していくことができるというか。
加藤:そうそう文化を耕すための土壌というかね。農家さんがよく『土』を見て耕す場所を決めるようにね。なので、いま聞いてもらった『東』の話を感じてもらいながらパークの周辺を歩いてみてもらえるとおもしろいかも。湯島とかちょっと卑猥なゾーンもあるけど(笑)。皇居を中心として東と西に分けた東京の遊び方をするのは僕らとしてはお勧めですね。なのでパークギャラリーにきたら温故知新じゃないけど、周りを歩いていると古い建物とかがたくさんあるのでお散歩がてら楽しんでもらったり、それこそ明治から続いてる世界で一番古い「みますや」っていう居酒屋があるし、ほかにも老舗の飲食店が山ほどあるんで、パークに寄った帰りにそこでご飯を食べて帰るのはオススメです。
👇 明治38年創業の老舗居酒屋『みますや』
加藤:パークに来るだけではなく、もっと広い視野で『エリア』をとらえてもらえると、もっとパークギャラリーはもちろん、その町のことが好きになるし、楽しくなると思います。パークだけじゃなく、そんな風に、自分が住む町のことを分析してみられるといいかもね。
星野:ですね。
今週の1曲
加藤:最後に今日の一曲を紹介して終わりたいと思います。せっかくなので、PARK SHOP & GALLERY という名前でやっていた時代の思い出の曲を。今もそうなんだけど、僕が音楽が好きってこともあって平井時代は店内でライブをよくやってたんですよ。目の前が公園だったりするから音出してもよかったのでアコースティックライブをやることが多かったし、集まるスタッフやお客さんも音楽が好きな人が多くて、みんなでよく BGM を交代で流してたりしました。その時よく店で流れていたのがシンガーソングライターの ayU tokiO くんの曲。今回はラジオということもあるので “電波をキャッチする” という意味で『air check』という曲を流そうと思います。