窓際から今日も #01 | 口下手とまなざし | 阿部朋未
自分のことをなんて説明すればいいのか、毎回悩む。
そういう類のことをちゃんとやった最後の記憶はおそらく高校の推薦入試の面接くらいで、その後は主にバイトや仕事の面接で行った程度しかなく、いわゆる"就活"というものをちゃんと通ってこなかった人間にとってはエントリーシートを作成する行為すら頭を抱えて難儀してしまうのだ。なんなんだ、「ガクチカ」って。ひとまず毎月ライブハウスとタワレコに通っているような学生時代でした。
友人知人、他人のことを紹介するならまだしも、自分のことを自分で説明する行為は正直あまり好きではない。もちろん他人 / 自分を問わず、複雑に構成された内面を言語化することは、少なからずその内容を理解している上で成り立つ行為であり能力であると思う。その能力を他の人の為に使うのであれば、そりゃあもう諸手を挙げて自分の持ち得る語彙や表現を尽くすのだけど、いざそれが自分自身の為にとなると一向に閉口してしまう。
自分のことをどれだけ知っているなんて、言ってしまえば高が知れているし、そもそも見える視野にはどうしても限りがあるし偏りだってある。なにより、自分のことを流暢かつ饒舌に説明できる人を見かけると、なんというか …… 醒めてしまいませんか ……「サーッ」って ……。
これに関しては自分が正反対の場所に位置しているからこそ、ある種の羨望みたいな部分が内包しているのも否めないけれど、手早く言ってしまえば私がただ口下手だからに過ぎない。喋ってもなお、書いてもなお、だ。
小学生の頃まではお喋りだった記憶があるのに、どこかでつまづいた感覚がしてからは、気づけば段々と口下手な人間に育ってしまっていた。例えば、人から発せられた話題や質問に対して瞬時に頭の中でぶわぁっと溢れんばかりの思考が浮かぶものの、要はそれを要約して人に伝える技術や能力が拙いのだ。なので、自分なりに要点を整理して伝えても「で、どうしたいの?」と言われるのが関の山である。そのためいつもちょっと凹む。
さらにはどんなに言葉を尽くしても、スマホやパソコンの画面に映る言葉は同じフォントで表され、どうにも無機質に見える。だからといって手書きで伝わるかといえば全てがそうではないのも事実で、どれだけ誠実さを尽くしても至らないことばかりなのが時として虚しくも悲しい。「例え それを知っていても 叫ばずにいられない」と『ベステンダンク』で高野寛さんは歌っていた。曲がりなりにも諦めずにはいようと思う。
では、自分に向けられているその眼差しを、最近同じくらいに他の人へ向けているだろうか?正しさは置いておいて、同等の解像度で解釈しようとしているだろうか?ふとそう考えた時に、あいも変わらず自分本位でしかなくてとても情けなくなった。こうやって偉そうにつらつらと書いているのも恥ずかしいくらいに。自分の話ばかり聞かされてはつまらなくて飽きてくるだろうし、そもそも相手に対して失礼だ。同時に自分のことばかりの自分にも飽きてきて、つまりは超固定化された視野に疲弊している自分もいる。いい加減他の景色を見たいのですが、いいですか。
例えばパーソナリティに興味を持つことや向ける眼差しは、相手への最低限の敬意であると最近気づき始めた。そういう意味では今まで無礼講を働いてしまった人々へは精一杯の謝罪を、それでもなお今に至るまで仲良くしてくれている人、見守ってくれている人々へ最大限の感謝をしたい。頭では理解しているもののジレンマを抱えながら結局は自分のことしか書けなくてやっぱり情けない、なんてことを Twitter にて呟いたら「まず自分と向き合ってからじゃないと、外の世界とも向き合えなかった」と言ってくださった方がいて、腑に落ちたとともに少し地に足をつけて考えられそうな気がしてきた。大人になった今もなお生傷は絶えないし、幾つになっても余裕がないけども、それでもせめて外の世界へ向けて意識を向けて、できることなら心を配っていきたい。
ー 阿部朋未