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猫背で小声 | 第2話 | 近藤、小学校引退。

ドラマは1回目よりも2回目のほうが見応えがある と言ったある業界人の言葉をプレッシャーに2回目を執筆させていただきます。

さて前回、担任から変なことをされ、
小学校に行くということに疑問を持っていたぼくでした。

朝起きて、小便して、顔洗って、ご飯を食べ、さあ行ってきます、という幼きモーニングルーティーンがめんどくさくなっていました。義務教育ではありますが、それを 放棄してもいいんじゃね、と思いはじめたのもこの頃だと記憶しています。

学校へ行くことへの温度が低いまま数ヶ月経ち、
学校の運動会がありました。小学3年生の時です。

当時のぼくは運動神経があり、クラスのリレーの選手に選ばれました。小学1年生からリレーの選手に選ばれていたので、今回の選出も当然でした。ジーコ JAPAN の「巻(マキ)選手」のようなガチサプライズではなかったです。

小学生特有の軽いテングでした。
鼻を折られるのは時間の問題。自然の摂理です。
やはり鼻を折られる出来事がありました。

運動会当日、毎年の恒例行事になっているリレー本番を迎え、バトンを渡されグラウンドを走っていました。当時ぼくの学校は各学年に3つの組しかなく、ぼくは2着で次の学年にバトンを渡しました。

「2位だからまあまあか」と思って一息ついて自分の教室に戻ると、足の遅い、しかもリレー選手ではないクラスメイトからこんなことを言われました。

「なんで2位なんだよ !! もっといい順位で回せよ」

とのこと。

理不尽です。
サッカーのW杯でゴールをあげられなかった選手に、ただの一国民が罵倒するようなもので、とても納得できませんでした。

普段なら堪えられるのですが、学校に行くことに疑問というか、固まらないフワフワとした気持ちを抱えていたため、ドミノがキレイにカタカタとリズミカルに崩れるという感じで、学校への気持ちが消え失せてしまいました。

こんなもんです、人間の気持ちって。
いくら順調でも簡単に堕ちていくのだと。
ぼくの不登校が始まりました。

しかし我が家ではすでに姉が不登校気味だったので、家族内では「不登校」に寛大でした。姉が学校に行かなくなった最初のうち、母親は「不登校は病気なんじゃないか」とか、「学校へ行かなくなった人達の集まり」であるフリースクールを調べまくっていましたが、ぼくがいざ不登校になると、それほどオタオタしている感じはなかったのです。

我が子の不登校は当たり前、という感じです。

子どもは不登校で学び、親も不登校で得るものはあるのだと。

ところで父親はというと、「見て感じて、言わぬ父」でした。
父と母、ぼくの中でのバランスが良かったのかと感じます。
あと姉ちゃんも。

「今は今、未来は未来、安心して」

と当時の近藤家に言いたいです。

不登校開始当時もなぜか希望を捨てない子どもでした。どうにかなるっていう気持ち。なぜだろう、本田圭佑のような自信はないのに。

「伸びしろですね !!」

とリトルマナブが言っている。


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/ 第1話のサポートありがとうございました \

近藤 学 |  MANABU KONDO
1980年生まれ。会社員。
キャッチコピーコンペ「宣伝会議賞」2次審査通過者。
オトナシクモノシズカ だが頭の中で考えていることは雄弁である。
雄弁、多弁、早弁、こんな人になりたい。
https://twitter.com/manyabuchan00


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