汽水域 #07 | 2024.9.12 午後 10:58 ー 阿部朋未
今井さん。お返事が遅れてしまってごめんなさい。あれから家族が順番にコロナに罹り、一番最後に私が罹ってしまいました。幸いにも軽症で済んだものの、まだ本調子ではないゆえに頭も足元もふわふわした心地です。季節の変わり目だけあって、疲れが出やすい時期だとも思います。どうか今井さんもご自愛ください。東京、どうでしたか? 会いたい人には会えましたか?
その場所で撮りたいこと、一緒に何かやりたいことを考えるほどの情報や関係性を持っていないと想像しにくい、という視点に思わず深く頷きました。確かにそうだよなぁと。情報や関係性がある程度足りていないと画が浮かび上がってきませんもんね。東京に限らず、いろんな場所に足を運んだり、人と会うことで自然と想像の解像度が上がっていくような気もしています。それを何度も何度も繰り返した末に行きたい場所が見つかるのかなとも思ったり。とはいえ、思い浮かばずぼんやりしたままの状態も焦りますよね。それでいて、「写真を撮る人」だとそこそこ認知されていて、でもそこで胡座(あぐら)はかきたくないし。
けれども、必要としてくれる人がいるならば、その人や場所のために誠意を持って撮り続けていれば、目の前の道が塞がることはまずないのかなとも思います。同時に今のうちに自分で自分の鼻をへし折っておきたい気持ちもよくわかります。無意識のうちに天狗になってしまうのだけは避けたいです。
怖い。
人や場所との関係性を築くのはそうかんたんなことではないですよね。どちらかというと私は不得意だったりします。例えば七五三や入学式の撮影において、ほんの短い時間である程度の関係性を築く必要があるとそれはどうしてもがんばらないといけないですが、それ以外の場面においてはどうもぎこちなくなってしまいます。ある種、自分にとっての永遠の課題でもあるのですが⋯。
今、私が次の方向を目指そうとしても現実味がなく、ほとんど何も思い浮かばずに悶々としているのは、自分と対峙するあらゆる関係性を見つめ直す時期なんだと思います。これまで綴ってきた家族や地元なんかもそうだし、友人知人だってそう。なんなら人間関係だけでなく普段の思考などもその類で、身の回りのあらゆるベクトルの向きを調整したり、再度ピントを合わせる必要があるのかもしれません。いろんなズレが生じた末に居心地が悪くなっている気もして、多分これらを無視したらどこかで行き詰まるだろうなぁと思っています。焦らずじっくり時間をかけてなんとか整えたいところ。
今井さんの言葉で思い出した記憶があります。
私が好きだった母方の祖母が終末期で入院していた時、伯母が祖母の手を握っている光景を写真に撮ろうとしたことがありました。コンパクトカメラは持ち歩いていたし、今撮ったなら確実に祖母が生きていた証になるだろうと。でも、カメラを構えてもシャッターボタンは押せませんでした。今井さんの言うように「自分が弱っているところを撮られたくない」気持ちを慮る(おもんぱかる)意味もありましたが、写真を撮ることよりも今、この瞬間を目に焼き付けることを選びました。もしも、あの時撮っていたら良い写真になっていたとも思います。でも後悔はあまりしていません。
「あの時撮っておけば良かった」と思うことはたくさんあります。確かにこれくらいの必死さでやっていたら寿命が縮んじゃうかもしれませんね。それでも相手が撮ることを許してくれるのであれば、それも自分にとっては本望だなとも今は思います。不謹慎かもしれませんが、お祖母様のお葬式の時の写真、どれも素敵でした。自分ひとりでは持ちきれないからと少しだけでも持たせてもらえたこと、感謝しています。
阿部朋未
阿部朋未 × 今井さつき
写真展『汽水域』開催
2024年10月23日(水)~ 11月3日(日)