ZINE REVIEW ① 新多正典 PHOTO ZINE 『ストリートスナップファイト』
1 —— 音と鼓動と空間の話
ブラジル北東部のフォークロア『マラカトゥ』。
極楽鳥のように色鮮やかな衣装に身を包み、楽器を打ち鳴らすそのパレードに密着した2冊の PHOTO ZINE『Explode Coração』『Mensageiro dos deuses』。
訳はそれぞれ「心が、爆発する」「神々のメッセンジャー」。京都を拠点に活動する写真家・新多正典さんの密着によって、プリミティブ(原始的)なまでの命の鼓動が、日常の様子と、神事とのコントラストが描かれている。
命の音がする。
人はずっと昔から音を鳴らし、踊る。命があるのを確かめるように踊ってきた。
私たちの体の中で心臓が脈打つ限り、私たちは『鼓動』から『生』を連想することができる。この写真集から、命の音がするのは、カメラが(写真が)、機能的に、その瞬間<そこに立っている>その空間の空気を閉じ込めることができるから。
いやいや音までは撮れませんよと思うかもしれないけれど、音は空気の振動なので、その揺らぎは、映る(フィルムだと特に)。私たちは無意識かもしれないけれど、写真の中にわずかなその揺らぎを感じとって、心の中で『音』に変換している。もう少し補足すると、私たちは<写真>を見る時、今回なら「ブラジル」「パレード」、「楽器」、「お祭り」、と言ったようにまず見えるものから『キーワード』をキャッチする。そして自分の知識と体験、記憶と想像力をもってその景色を重ね合わせながら揺らぎを感じ見ることで、頭の中に、<写真>の背景や物語を加味して立体的に再生することができる。そこには音が鳴れば、風も吹く。
本来、写真はただの記録(メディア)なので、写真集にスピーカーでも埋め込まない限り、写真から音はしない。風も吹かない。つまり写真は写真。
私たちがそれを作品と言えるのは、見た人が脳内に再生した立体的な『空間』があってのこと。写真はあくまで記号で、写真を作品として見る時、この『空間』の言語化を私たちは繰り返し行っている。
まるでシュレーディンガーの猫のように、誰かが<見る>ことではじめて『記録』から『作品』になる。作品のよしあしというのは、多くは見る人の質に委ねられることにつながるし、写真家や写真と向き合う人たちは、この『空間』を共有しながら話をするとよいと思う。
だいたい私たちは自分の『空間』に入って来ると気持ちいいと感じる、都合のよい『作品』のことを好きになる。ちょっと難しいなと感じる表現を目の前にしたら、扉を閉じればいい。それじゃあつまらないのに。
いま、なんだかぼんやりしたお花とかお空とか、友達同志のスナップが流行っているのは、この<空間の質の向上>または<空間の拡張>にエネルギーを使わない人が増えているからだと思う。SNS の普及や経済的(いや精神的?)貧困で、半径1mくらいの、都会の住宅事情みたいな、せせこましい箱庭空間が増えている。調べれば済む、知識と体験が欠けた「知った気になったような空間づくり」。もちろん違和感を楽しもうとするひともいるけれど、稀だと思う。あんまり突拍子もないことを考えると目立つから、保身を貫くために、みんながいいと思うようなことがいいと思ってた方が、空間運用のコスパがいい。好きなものに囲まれていたいだろうし。フィルターバブルには気づかない。知らないことは知らないままでいい、という考え方もあるのかもしれない。特にその人たちが悪いとも言えない。
何をどう見るのか。
私たちは写真の話じゃなくて、空間の話をもっとした方がいい。
2 —— 空間と言葉と交流の話
(引き続き、写真を見た人が頭の中に描く作品の世界(写真の正体)のことを『空間』と呼ぶ)
この空間の形成や拡張を手助けするのが、『コンテクスト(文脈)』や、写真家やキュレーターによる『ステートメント(声明)』だ。見る人をワクワクさせるようなものに出会うとうれしく思う反面、写真の賞レースはある種『コンテクスト』と『ステートメント』のプロレスみたいで滑稽でもある。そんな風潮から言葉を噤む写真家も出て来るのも無理ない。写真に、言葉なんてない方がいいという場面も、ある。
ただ、言葉を諦めるというのはこの「空間」の存在=見る人の存在を疎かにすることにつながる。もしくは「メディアとしての写真を過信している」か「別に見られなくてもいい」と思ってるか「無口がクールと思ってるか」、いずれにせよ空間を無視することは作品としては浅はかかなと思う。
もちろん言葉にするのが苦手でもいい。いい写真家には優秀な編集者が近くにいるように、本人が言葉にするのは下手でも、言葉にする方法はたくさんある。時に写真が雄弁なように、デザインも雄弁なのも明らかだから、言葉にできないならデザインに頼ればいい。「写真は孤独だ」と、格好をつけてひとりでやろうとせずに、空間を言語化してくれるいい編集者と、空間を可視化して伝えることができるいいデザイナーを仲間に、成長していけばいいのだ。このフィジカルなコミュニケーションを欠かすと、大概、こじらせてしまう。
ここでいう『空間』の感覚を持っている写真家が、いい仕事、いい展示をする。時代を読む、とか、流行を読むとか、そう言う風にも置き換えられるけれど、他者を思いやる力を持ってる人はどの分野においても魅力的である。そういう人は機材とかモデルの有無などはあくまで手段だと考えたりできる人だったりする。逆に『空間』に思いが至らない写真家は、独りよがりで、いつまで経っても何を撮るべきかとか、機材がどうとか、構図や色や光に依存していることが多い。
そういう人は写真がよくならない、仕事が来ないと嘆く前に、誰かの脳の中に入って『空間』を見せてもらった方がいいと思う。「あなたの写真はこう見えている」、というヒントがあると思う。
頭の中には入れないから、実際にはポートフォリオを作っていろんな人に見せに行くというのをやるといいと思ってる。これは一概に(みんなが苦手とする)『営業』というわけではなく、いろいろな業種の人の『空間』を旅すると思って楽しんだ方がいい。旅の数だけ、言葉が生まれて、その言葉は共感を呼んで、ひとを集めて、交流を生む。交流がまた次の写真を生み出し、誰かの空間をより豊かにする。もちろんその過程でたくさんの自問自答も必要。
いい写真というのは、その『空間』におけるコミュニケーションと自問自答の蓄積さえもプリントに焼き付けているようだ。
話は少し戻るけれど、別に空間が思い描けなくても、撮りたいものだけ撮って、見る人に完全に委ねるタイプの写真家もいて、それはそれでエゴがなくて潔くていいと思う。自分の腕より、写真のよしあしより、みんなの『空間』を信じている。ただその代わり、エゴの隙間が入る余地のないくらい写真に対して反射的で、素直(まどわされない)である必要があるとは思う。もしくは圧倒的なしたたかさで、これを実現する写真家もいると思うけれど、いずれにせよ、写真を信用しながら依存しないことが大事です。
新多正典『ストリートスナップファイト』
3—— 誰とファイトする(戦う)のか
ここからが本番です。1と2を踏まえて、新多正典さんの新作 PHOTO ZINE『ストリートスナップファイト』を読み解こうと思います。
以下、本人のサイトより。
ストリートスナップファイトとは
モノクロ都市風景写真集。
光と影が作る奇譚(きたん)画集。
世に跋扈(ばっこ)する心象風景写真への異議申立。
都会の景色の断片を、強い日差しの中、モノクロームで切り取った45Pにわたる B4 の写真集(思ってるより大きい)。本来、名前のあるはずの場所も、光と影のハレーションによって、もはや写真かどうかも怪しい幾何学模様となって、物語を失ったかのように見える(奇譚画集と言いきるゆえんだと思う)。
読み手は『空間』に流し込まれる『余白』という名のもう1つの空間に、一瞬戸惑うかもしれないけれど、心臓くらいのスピードで、一定のテンポで心地よく刻まれるミニマルなビートが気持ちいいように、自然となじんでくる。
ビート。
『マラカトゥ』を追った経験がそうさせるのか、新多さん自身の鼓動がマラカトゥに呼ばれたのか定かではないが、新多さんの写真からは常に心臓の音=ビートが聞こえる。プールで泳いだあととか、全力で走ったあと(つまり酸素不足の時)自分の心臓の音がやけに内側で大きく聞こえるみたいに、町全体の景色が色という情報を酸素みたいに失うことによって、町の心臓音がはっきりと聞こえて来る。『マラカトゥ』ほどのドキュメンタリーなメッセージはないにせよ、町の鼓動は、アンビエントなテクノをヘッドフォンで聞いてるみたいに心地がいい。
ただ、多くのひとは<余白>は難しいものと捉えるし、先述したように<空間の拡張>にエネルギーを使いたがらない。長い沈黙の時間を不安に感じたり、歌詞がないと曲のよさがわからないのと一緒で、JPOP みたいな、ずっとガチャガチャと音が鳴ってるような写真しか、やはり流行らない、売れないのだと思う。悲しいけれど、音楽でさえ勝ち目のない世界で、この『ファイト』の勝敗はいかに。
なぜ長々と、『空間』の話をしたかというと、実は、このファイト(戦い)は、ぼんやりとした心象風景を撮る『流行写真家気取り』を相手取ったものではなく、ナルシシスティックなハヤリの『心象風景』でしか拡張できない<箱庭的空間>しか作れないひとたちに対する嘆きと言えるからだ。「見る人のセンスがない」と言いたいわけではなく、写真という表現の、日本の中での文化的な位置、価値、意義、評価とリテラシーの低さ。同時に、技術の進化によって、誰でも撮れてしまうという<気軽さ>が生んだプライドのねじれ、フィルムの値段の高騰、アートフォトとコマーシャルフォトの二極化(本当は両極にあるものではないのに…)、インテリと消費者の二極化。それらによって生まれる写真業界の歪み、ねたみ。その他、歴史が積み上げて来たたくさんの負のスパイラルによって、自然といつのまにか狭く小さくなってしまった『箱庭空間』を相手取った戦いなんだと思う。写真作品を見てもあまりよさがわからない、とか、プリントの違いがわからないとか、写真集を持っていないというひとが増えるのも無理もない。
ただ、ぼくらの世界には、こんなにも写真があふれているのに!
フィルムとプリントにこだわり続ける新多さんのような写真家ならなおさら感じることだろうし、この勝負に抗うのが健全で正当だと思う。この抗いに対して、1票入れる感覚で、ぼくはこの本を自分の本棚に入れた。それがぼくなりの『ファイト』だ。
そして写真家としての戦い方はいろいろあると思う。
2で語ったように、言葉にするのが苦手なら、デザインで語ればいい。『ストリートスナップファイト』は写真と言葉だけでは伝えられない重要な部分を、しっかりとデザインで落とし込んでいる。コントラスト、余白、そのあいまいさ、強さ。言葉にすると野暮になってしまうその全部を、うまく体現している。
新多さんの感覚を引き出すディレクターの手腕もあるのだろう。新多さんが普段写真について語っているその時の温度のままが、最低限の要素でまっすぐ落とし込まれているのを、彼のことを知っていれば気づけると思う。知らなくても、伝わると思う。なぜならこれを作るにあたっての会話の層が、写真のセレクトやエディトリアルに落とし込まれている。
技術が進化して、パソコンでひとりでできることが増えたこともあるのかもしれない、独りよがりな空間性のない写真家がなんだか多くて、最近は、なかなかそういうコミュニケーションの可視化のような PHOTO ZINE には出会えていない。だから、ひとりの写真家の極私的なパーソナルな思いをチームで作った PHOTO ZINE という点だけでも、手にする価値はあると思う。同業者は特に。
少しでも多くの人が展示をして、不特定多数に見てもらう(空間を共有し合う)機会を増やす、というのも、小さなアクションではあるけれどいいのかもしれない。敷居の低いフォトギャラリーがもっとあるといい。
4—— さいごに
もう15年以上、写真家のレップやコマーシャルと深く関わる仕事をしてきたわりに、写真のことをあまりこうして語ることはないし、そもそも学術的に写真を学んできたわけではないから、偉そうなことを言ってしまってるようで恐縮ではあるのだけれど、このレビューが写真家を志す誰かの役に少しは立てば、役に立てばと、祈りながら書いてるので、多少は許して欲しい。空間の話もどうしたものか。
そういえば、
たまたま珍しく、古本屋で、写真のことについて書かれた本を手に取ったのだった。ちょうどそのあと、たまたま新多さんから、『ストリートスナップファイト』に対してレビューを書いてくれないか、と頼まれて、いまこうして何日かかけて少しずつこれを書いては消して書いては消してる。
つまり手こずった!
写真とはこうだ、という回答が、自分の中になかったからだと思う。いま、こうして、『空間』というロジックを使ってでも自分の思うことを書ききったなと思えるのは、行き詰まってふいにめくったその本の最後に書いてあった言葉のおかげだったので、これはもう何年も前に出版された本のことだけれど、ここに紹介しておきます。
新しい写真、それは世界を新しく見る能力を意味している
本の筆者が音楽家のジョン・ケージの言葉を『写真』に置き換えたものだけれど、これがいまの自分の写真作品に対する考え方にフィットした。
<撮る人間>の熱意を読み取ろうとすることで見落としてた、写真を<見る側>のエネルギーが『空間』という解釈になってストンと落ちてきた。
写真は思っている以上に見る側に依存しているはずなのに多くの写真作品は、撮る側のことばかり。言葉をひとりでこねくりまわしても、いいものは投げられない。もっとフィジカルな対話を。言葉や感覚の共有を。気づきを。
そして「見る人へ」。
ここに書いた『空間』を豊かにさせる方法というのは意外と選択肢がないように思う。文脈を読み取るとか、作者と話すというのはかんたんだけれど、例えば旅をするとか、新しい人に出会うとか、悲しい恋をするとか、いいセックスをするとか、おいしいものを食べるとか、料理をしてみるとかがいいと思う。本を読んだり映画を見るくらいではおそらく広がらない。痛みとか感動とか、実感的なリスクを伴う体験しか、かなわないのではないかとぼくは思う。
庭の柵から飛び出すようなイメージで自分の知らない世界に飛び出すことや、過去に負ったヒリヒリとした火傷のあとのような感覚を忘れないようにすることや、傷さえも許せる前向きな心が、それぞれの空間を拡張してくれると思うし、そういう空間の共有は他者を思いやることにつながったりするのだと思う。
いつか、より多くの人たちが写真を通じて、想像力をフルに働かせられる社会になった時、この戦いの勝敗が決まる。その日までに、ギャラリーとして、クリエイターとして、できることはすべてやりたいなと、この PHOTO ZINE を手にしながら思った。
新多正典『ストリートスナップファイト』
新多正典 instagram
https://www.instagram.com/nitta_masanori/
おしまい