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boa viagem / ex. 01 『本当に街は誰のもの?』 by 写真家・新多正典
※ ブラジル帰国後の関連事項を不定期で書いていきます。
ブラジルの、主にグラフィティを記録したドキュメンタリー映画『街は誰のもの?』(監督:阿部航太)の上映会∔トークショーに参加した。
実はこの映画は完成まもない頃に blackbird books という大阪の書店で上映会があり観賞済みだった。
それがもう5年前。
その後、スケートなどのストリートカルチャーを更に加える形でボリュームアップされた増強版がミニシアターを中心に全国的に上映されだした。
今回僕が観たのは増強版。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/136652734/picture_pc_6f5e24c68a09afdf705971a98376d8a7.png?width=1200)
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でもやっぱりこの映画で印象に残るのは前半のグラフィティ部分。
少しグラフィティについての補足説明をすると、欧米を中心に大きな壁面にイラストやグラフィックが描かれてるのを見たことがあると思うのですが、それをブラジルではグラフィティという。
グラフィティは大きく分けると3つのカテゴリーに分けられる。
① 発注者依頼によるグラフィティ(合法)
② 無許可のゲリラ的にやるグラフィティ(違法)
③ 文字や記号を記しただけのピシャソン(違法)
①②③ に明確な線引きはなく、同じグラフィティーロ(グラフィティを描く人)がギャラの出る①を受注するためにも②でその腕前を世に知らしめる必要がある。
そして、仕事としての①を得てもそれだけに満足するわけではなく、自分の存在を街に刻むためにも②を日常的に繰り返す人もいる。
そのシーンも映像の中で描写されていたけど、犯罪と分かっててもやってしまう、スリルを楽しむ作家としての矜持というのか病というのか、はたまた政治社会メッセージの発露なのか、複合的な感情表現として僕の眼には映った。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/136653022/picture_pc_08103d5ae8ddeb5890656148b8a0d3b1.png?width=1200)
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グラフィティがブラジルを代表するストリートカルチャーであるのはやはりそれをやっているのが黒人を中心とした低所得層であること。
世の中への異議申し立てをアートにぶつけて発散させている。
それをクールと考える資本(たまに行政も)が大きな壁面に描いていいよとギャラを与えて許可を出すこともあるが、それを良しと思わない富裕層はやはりちゃんといて、グラフィティが街の軋轢を生んでいるのも事実で、映画はそのあたりを冷静に(ただグラフィティを支持する形で)伝える構成だった。
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で、本題はその後の質疑応答を含むトークショーにおいて。
質疑はこんなに質問って出るもんか?っていうくらいに激しいディスカッションを生んだ。
印象的だったのは、此花区に長く住んでいるという年配女性から。
「うちの街が万博事業の一環としてギャラを払ってアーティストに壁面に絵を描いてもらった。私は毎日そこの前を通るけどちょっと怖いなと感じている。私たち住民の意思を聞かずにこういうことが進行していることに疑問を持った。だけど時代も変わってきているから認めないといけないのか、そのへんのモヤモヤする気持ちを解くヒントになるかなと思い今日ここに来ました。」
つまりこの映画が示すブラジルのグラフィティのようなものはこっちに持って来られては困る、という主旨としてその会場に居た人たちは受け取ったと思う。
そういう態度は不寛容ではないか、という反論がバチバチあった。
そしてその女性がやや劣勢で幕引きになったのだが...。
ここからが僕の意見。
此花区に住む女性の意見に僕は概ね理解するし、賛成する。
グラフィティに取り組むアーティストの姿には胸打たれたし、ストリートカルチャーも好きだけど、だ。
マラカトウにせよ、アンダーグランドでカウンターで、そういうものに惹かれてその土地に通っては行るけど、僕はこれを日本に持ち込んだら素晴らしいとはまったく思わない。
文化はその特有の土地に根ざしたものだし、グラフィティもマラカトゥもアートと総称してそれだけを日本に持ち込んだとて土壌がちがうのだから古来からその土地にあったものと軋轢を生むのは当然だ。
私たち日本人はグラフィティの文脈を共有していない。
最大の違和感は、万博事業の一環としてお上が資金を出して壁面絵画にお墨付きを与えていることだ。
そもそも貧困層の怒りが沸き起こったのが出発点で、その怒りの矛先であるはずの権力者がオーダーするという倒錯と矛盾。
この国はどれだけアートに無知で、アートということばに弱いのか。
そして発注者も受注者もつくって終わり。関係者はその街から立ち去り、住んでは居ない。
ブラジルであれば気に入らなければ白く塗り潰すことができるが、この国ではお上がお墨付きを与えたものを住民意思で白に描き変えることはできない。
長い時間を経過してグラフィティということばも定着したブラジルでさえ「街は誰のもの?」という疑問提示は相変わらず続く。
それをアートという形で輸入してその後の軋轢には当事者不在のこの国では、「街は誰のもの?」と問う以前の話しから始めなければいけない気がするが...。みなさんはどのように思われるだろうか。
まずは、ぜひ『街は誰のもの?』を観てほしいし、上映会の機会が今後も続いてほしいと願う。
おわり。
新多正典(にったまさのり)
京都市在住。写真業に従事しつつゼラチンシルバープリントなどアナログワークによる作品製作でグループ展等に参加。近年はリソグラフ印刷にシフトし、隔月刊行シリーズ『GRAIN』を制作・販売中。
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