よむラジオ耕耕 #03 『こんな僕でも社会人になりました』
加藤:こんばんは。パークギャラリーの加藤淳也です。
星野:北千住のギャラリー PUNIO(プニオ)の星野蒼天(そら)です。
加藤:ラジオ『耕耕』3週目はじまりました。4月の放送時点ではお便りや感想がまだないので今回も一方的に話をすることになってしまうのですが、5月は届いたお便りも紹介しつつみなさんと対話していけたらと思います。お便りはいつでも募集してるのでぜひ気軽に送ってください。
星野:2週にわたって「なぜパークをはじめたのか」を掘り下げてきました。今週は加藤さんが過去にギャラリー以外でどんな経験をしてきたのかをもっと詳しく聞くことによって、現在の PARK GALLERY そして江戸川区平井時代の PARK SHOP&GALLERY を併せて8年くらい続けられた理由を、今回の放送で深掘りしていけたらなと思っています。前回も話したように⋯
もともとギャラリーの知識も興味もなかった加藤さんが、ある日、思いつきでギャラリーをはじめるんですよね。その話を聞くと「誰でも明日からギャラリーは作れる」という加藤さんの意見に納得できる反面、それをさらに『続ける』ことは難しいと思うんです。そもそもギャラリーを続ける自信やその根拠はあったんでしょうか?
山形の田舎から下北沢に
加藤、バーテンダーになる。
加藤:自身はあったんだけど、根拠自体はめちゃくちゃ不安定だったと思う。でも東京に来る前からずっと『根拠のない自信』があったんだよね。
もともと東京に上京する前、スキー場とか樹氷とかが有名な山形の『蔵王』の麓に住んでたんだけど、実は小学5年から中学1年まで東京にいて、その後、山形に引っ越しているから、都会と田舎の高低差が嫌になって「意地でも東京に戻ってやる!」って気持ちがすごかったんだよね。
それでまあ、その頃から自分にセンスがあると思い込んでいたのだけれど、中学の間は特に友人も作らずにしばらく雪の中で生活してるというか、例えるならば雪の中で育てられた野菜が甘くなるみたいなイメージで「この過酷な状況が俺のセンスを磨いてる!」ってね(笑)。当時、親や東京の友だちの影響で演劇や映画に興味があって、高校でも演劇をやっていたから東京なら僕の才能は花開くだろうと思って上京するんだよね。
でも多くのひとがその経験があると思うけど、東京っていう街にコテンパにやられるわけですよ。
そんな中、上京したての若者の1番の心の拠り所とも言える『下北沢』のカウンターだけのロックバーに専門学校の卒業間近くらいから働きはじめるんだよね。そこでお客さんと向き合って、お酒を出してディープな話をして、夜が更けて朝になるっていう濃密な時間を週に2、3日過ごして、その日以外はライブハウスでバイト。そうすると段々ディープな世界に落ちていくのがわかるんだよね。バーに来る人たちの強さや生き様に直で触れて、かっこいいなと思う反面「自分には何もない」って気持ちはずっと抱えているんだよね。田舎から出てきたっていう劣等感もあるし。
でもそこで「自分の個性を輝かせるためにはどうしたらいのか」って考えていくうちに、お客さんとの会話の節々での言語表現とか、バーでかける BGM の選曲とか、あと本や映画の感想なんかを伝えるときのの言葉のセンスを褒められたりするようになるんだよね。「月火担当のバーテンの子、いいねって」。でもそのくらいではクリエイターにはなれないし、ましてや社会人にもなれないのはわかっていた。そういうことを感じながらも結局はその当時なりたかった『映像クリエイター』という夢に対して本気になれなくて逃げていたんだと思う。でもバーだったらそこが舞台で、自分が役者であり監督で、演出家で、常に自分にスポットライトが当たってる気がしたし、客にも光を当ててあげられている気がしていたから、居心地がよくて2年も3年もそこにいちゃうんだよね⋯。
でもバーテン自体はいまも当時も悪い仕事だとは思っていなかったし、むしろたくさんの人間のドラマを見れたし、誰にも体験できない感覚を全身で浴びれた、めちゃくちゃいい時期だったなと思う。ただ、どうしても20代なかばに差し掛かるにあたってまわりの友人も就職したり地元に戻ったりしはじめて、親戚にも心配されるし、ぼくも「社会的にどうして行くべきか」みたいなことを考え出すようになるんだよね。
夜の8時に店を開けて朝の5時に店を閉めて、その日の売り上げの30%を握りしめて昼までやってるバーでその日に稼いだ給料を使い切って、で、また夜起きてバーを開けるみたいな。その繰り返しじゃダメだろうって誰しもが思うし、僕もそう思いながらも働いてた。
バーテンダーから
いよいよ社会人に。
加藤:ある日、専門学校時代の同級生が、写真家とかデザイナーのマネジメントをする会社を勧めてくれて面接に行くんだよね。しかも当時スーツも持っていなかったし、服なんていうのは汚くて破れていれば破れているほどおしゃれだと思ってたから、ボロボロのジャージみたいな服で、今もそうだけど、髭を生やして面接に。
星野:面接に行く格好じゃないですよね。(笑)
加藤:やばいよね(笑)。妹と一緒に住むのを条件に親に借りてもらっていた下北沢のアパートから三軒茶屋にあるコンクリートの打ちっぱなしのオシャレなお金持ちが暮らす家みたいなオフィスまで行って面接がはじまるんだよね。
その時は『無心』というか『社会復帰』の第一歩っていう気持ちで行っただけだから、ダメ元だったし、社長に「アートとか写真に興味あるの?」って聞かれた時も、正直に「ない」って言ってる気がするんですよね。嘘をついても仕方ないなと。映画は好きだとか、演劇をやっていたというのは話したかな。一番大切なはずだった『写真』ていうのがどういうことかわかってないけど「社会人になりたいです。働けるなら一生懸命働きたいと思っています。」とは伝えた覚えがある。最後に「下北の〇〇ってバーでバイトをしてる」ってことを伝えると「今日もこのあと仕事?」と聞かれて、「そうです」と伝えて、その話を最後に面接が終わるんだよね。ニーズに応えられていない気もしたし、このオフィスの雰囲気に自分も似合わないと感じていたのもあって、絶対落ちたと思いながら⋯。
その後、バーの仕事に戻るんだけど、いつも通り常連というか友だちが集まって話してたんだけど、やっぱりその日の面接の話になって「最悪の印象だったと思うよ、絶対落ちた」って笑いあってた。正直言うとその時お客さんから「独立して店をやらないか」みたいな出資の話をもらってて、店舗の候補も用意されていたから「しばらくバーで働くか」って覚悟を決めれたというか、そんな話をしていた矢先、店のトビラが開いて、さっき面接してくれた社長が入ってきて「へぇーこういうところでバイトしてるんだぁ」って。
星野:すごい!来てくれたんですね。
加藤:そう、その日にね。『女社長』には似合わない汚いお店だったけれど、ぼくらの飲みのノリとかにもあわせてくれて、そこにいたみんなに一杯づつ奢ってくれたりもして。店の音楽とかお酒や会話を楽しんでくれたんだよね。それで帰り際に、トビラの前で振り返って「明日から来れるの?」って聞いてくれて、僕はすぐその場で「行けます」って答えて、「じゃあ、採用」って手を振って帰っていったんだよね。それでぼくの社会人生活がはじまるわけですよ。
星野:劇的ですね⋯映画みたい⋯。
加藤:それで次の日から働きはじめるんだけど、仕事というよりは最初はオフィスの棚に積んである写真集とか当時のバイト代では買えないようなオシャレな雑誌とかをひたすら読んで、写真やデザインがなんなのかを頭に叩き込むという作業の連続だった。その後、感想を求められるというか、ただ読んでも仕方ないから言語化することでその能力も自然に鍛えられたと思う。それはバーでの会話の経験も糧になっていたのかも。
それまで全くといっていいほど、そういう世界に触れてなかったから、砂漠を歩いて喉がカラカラの状態で水を飲むみたいな、そんな感覚で貪欲に写真やアートを自分の中にインストールしていった気がする。
あとはランチのお使いも勉強になったかな。例えば「カレーを買ってきて」って言われたら、どこのどんなカレーがいいかをいちいち聞くんじゃなく、スタッフのみんなの普段の同行や好みから、付近のおいしいカレー屋を調べて買ってきて提案して喜んでもらったりね。あとは、当時は電話の出方すら知らなかった。今だったら普通にできることもできなくて、敬語とか、マナーとか、社長の厳しい教育のおかげでなんとか社会人になれたって感じかなぁ。感謝しかない。
星野:具体的にはどんな業務内容だったんですか?
加藤:写真家のマネジメントの仕事だね。芸能人のマネージャーとかと近いのかもしれないんだけど、所属している写真家に、広告代理店や出版社やアートディレクターがオファーをするために電話をかけてくるんだけれど、その人たち相手に撮影の内容を聞いて写真家にシェアしたり、撮影日のスケジュールを調整したり、ギャラの交渉をしたり。写真家が言いにくいことを伝えたりとかしていたね。「営業に行きたい」と言われたらアポを取ったり、どういうプレゼンテーションをすると仕事が増えるのかを一緒に考えたりっていうのが具体的な業務だね。デスクにいながら電話とメール、ファックスで仕事をするようなイメージだね。写真をプリントするラボに写真やフィルムを取りに行って届けたりっていうこともしたかな。たまに現場にも連れてってもらって名刺を渡してあいさつをするようになったり。写真展に積極的に行くようになったり。実際に写真展を手伝ったり。その頃にはもう少しスマートな格好にはなっていたかな(笑)。
知らない間にギャラリーの感覚に近いクリエイティブの世界に入っていたような気がする。
結局そこにいたのは3年間だったんだけれど、そのうち写真家のマネジメントだけじゃなくて、写真家と一緒にスタイリストやモデル、ヘアメイクを決めたり、デザイナーと一緒にロケ場所やスタジオを決めたり、撮影自体の細かなことを組んだりする『コーディネーション』ていう仕事もしていた。社長がコーディネーターもしていてその手伝いという感じで。それこそ社長が担当していた福山雅治さんとか、当時のイケてるモデルさんとかミュージシャンの人たちに囲まれて、第一線のクリエイターが集まる現場でアシスタントとして入って近くで学ばせてもらったね。そのおかげもあって徐々に作る側に回りたいって思うようになるんだよね。かっこいいなあって。
本当はクリエイターになりたくて上京してきてるから、デスクで電話を取ってファックス送ってっていう関わり方じゃなくて、自分のセンスで関わりたいなと思うようになって、社長に相談して卒業させてもらって、デザイン会社に転職することになるんだよね。そのデザイン会社の話も少し長くなってしまうのでまた来週話します。
社会人になってしまわないために
加藤:実はその時、社会人に急になれたわけでもないのはもちろんなんだけれど、社会や業界に馴染めたのかというと必ずしもそうではなくて、どこかで社会人に染まってたまるかというか、1人の人間としてのアイデンティティというか、ひとりの表現者としての可能性を強く意識していたというか、つまり「社会に飲み込まれてしまわないように」っていう感覚がすごいあったんだよね。クリエイターになりたいというちょっと前の感覚かな。生きている以上、表現者でありたいというような気持ちに近いかな。
というのもバーテンのアルバイトをしていた時代に、社会から外れた暗闇のような場所で生きていて、そこに居心地の良さや自分らしさみたいなのをすごく感じてたから、「社会というものに飲み込まれてしまわないように社会人になる」っていうのが1つの大きなテーマとしてあって、となると、そのテーマを守り続けるにはどうしたらいいのかってのがあるわけじゃん。それで、その当時の僕なりのこたえは「自分の表現活動を続ける」ってことだった。
なのでバーテン時代から音楽も文章を書くこともやっていたし、就職しながらも『表現する活動』は下手だけどずっとやっていた。会社で働きながら週末の休みを使って音楽イベントを仲間とやったり、ZINE を作ったり、とにかくエネルギーを持て余していたからいろんな活動をしていたね。社会に飲み込まれずに『自分』を保つために。週末に全力を注いでたから休む暇はなかったし、むしろ週末の方が忙しかった。土日は自分の表現活動や恋人との時間にあてて全力で遊んで、平日の夜、仕事を早く終わらせて、家でゆっくり休むっていうのが、僕の当時のやり方だったかな。まぁ遊ぶのも仕事をするのも一緒というか。全部が刺激的な状況に自ら持っていった。
星野:僕も今、社会人として働きながら PUNIO で自分の表現活動をしているので今のエピソード勇気づけられました。『耕耕』でこうして加藤さんの話を聞いているのも、自分の表現を広げる時間でもあるので本当に楽しいです。
今週の1曲
加藤:ありがとう。そろそろ時間なので、最後に曲を流したいと思います。今週の1曲は、当時、仲間たちと毎月主催していた音楽イベントによく参加してくれていた THE PYRAMID というバンドのボーカルの角田健太君がソロでやってる曲で、中でもとても好きな1曲です。バーという夜の世界から、社会にパッと飛び出るような明るい曲です。
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