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通勤アイス【短編小説】

ふと顔を上げると、同僚が背中を丸めて歩いていた。

去年、中途で入ってきたばかりの彼女は、毎日きっかり始業1分前にタイムカードを切る堅実な社会人だ。
だから、こんなにも早い時間に、こんなところを歩いているはずがない。
しかし、ピッと張ったクリーム色のワイシャツ、小さめの紺のリュック、揺れる低めのポニーテールは、確かにあの同僚に違いない。

今日みたいな特に眠くて気怠い朝に、普段は仕事外で殆ど話さない同僚と接触するタスクを負うのは、まあまあ気が重い。
しかし今朝の彼女は妙に歩くのが遅く、このままだと追いついてしまう。

己の挙動が不自然にならないようにするには、このまま速度を落とさず、追い抜きざまに挨拶をかましスマートに去る、それより他はない。
華麗な逆転まで残り3歩、正確無比なウォークを披露しながらおはよう、と声をかけ……ることはできなかった。

彼女は、棒付きのアイスキャンディーを食べながら歩いていた。
「あー、松田さん、おはようございます」
挨拶の先手まで奪われて、俺はなすすべなく、あ…おはざす…などと典型ドッキリ直後の不審挨拶を返すことしかできなかった。

こういう時、次はなんて言えばいい?
1番スムーズなのは「なんで朝の通勤時間にアイス食べてるんですか?」だろう。
本当になんでアイスを食べているんだ。
痩身という形容がよく当てはまる彼女が、いつも朝からアイスを食べているとは正直思えない。
しかも、もう秋口で朝はもうそれなりに寒い。

あとはウケ狙いするなら「通勤アイスうまそっすね!ひとくちくれません?」とかでも良かったのかもしれない。コンプラ的には終わりかもしれんが。

で、朝からアイスを頬張る同僚を眼前にして俺の口から出たセリフは「水野さん、今日なんかいつもより早いですね」だった。
まるで俺がいつも彼女の出勤時間を把握してるみたいじゃないか。クソ。

彼女は空いてる片手で頭をぽりぽり掻いて(なんか漫画みたいな仕草だ)「アイス食べたくていつもより早起きしたんですよ。でも家で食べるほどの時間の余裕なくて、そこの駅前のコンビニで」と薄黄色のアイスを軽く持ち上げた。
俺は「アイス……」としか言えなくて、その微妙な間に彼女の口元から、シャクッと小気味良い音がした。

「アイス、おもろいじゃないですか」
物を口に含んでいる時特有の滑舌だ。
「なっ……にがどういうことです?」

普段の彼女はかなり仕事ができる方だ。
中途ながら部署の厄介な案件をよく支え、余計なことは話さない、打てば響く軽やかな返信、目立たずともスマートで堅実な進行。
同じ部署の人間として、その仕事ぶりを信頼している。
のだが、今朝の彼女は一体なんなのだろう。
本当にあの水野さんなのだろうか。

俺は仕事外の彼女のことは何も知らない。まあ、彼女も俺のことをほぼ全く知らない。
俺たちはそんなプライベートを喋るような仲じゃない。
コロナ禍を経た若者における、仕事の同僚の間柄なんて、たぶんそんなもんだから。

「今日ってたぶん、あんま面白くなさそうな日だなって思って。松田さんも昨日のアレ。帰るギリギリのやつ。あんなのあったら今日ほんとアレじゃないですか」
いつもの彼女とはかけ離れた落ち着きのない早口、いわゆる大阪のおばちゃんになっていても、流石に彼女の言わんとしてることは分かる。
昨日の退勤間際に、今日の午前が締め切りの仕事を差し戻されたのだ。
あちらさんのチェックがギリギリなくせに、細かくご丁寧なご指導とご修正指示付きで。
彼女は『お手数をおかけし大変恐れ入ります』と即レスしながら、デスクで小さな溜息をついていたのだろう。

「だから、朝からアイス食ってたら面白くないですか?」
彼女の昨日の返信は、これと同じ脳味噌から出ていたのだろうか。あるいは逆か?
「いや、まあ……おもろい……んですかね」

よく考えたら「なんで朝の通勤時間にアイスを食べているのか?」の返答で、俺はそれを聞いてもいないのに、先んじて答えられてしまった形になる。

「これでこのあとの今日がなんにも面白くなくても、朝だけは面白い1日になりました」
「そう……ですか」
いやでも、朝からアイスを食ってるのは、確かにだいぶおもろい、のかもしれない。
少なくとも、俺の今朝は、確実におもろいものになってしまった。

俺からは特段何もいうことはなくて、でもそれでこのまま先に行ってしまうのも何か違う気がして、普段よりうんと小さな歩幅を保って歩く。
アイスの咀嚼音だけが俺たちの間を取り持っている。

「あ!でもこんなことしなくても良かったかもしれないです!」
彼女が急にでかい声を出すので、俺は普通にびっくりして肩を跳ね上げてしまった。
「松田さん知ってます?今日、新宿中央公園に夜行くと、無料で映画見られるらしいんですよ。でっかい幕引いて、野外上映会みたいな?キッチンカーとかもでるらしくて」
彼女は蟻の行列を見つけたガキみたいな顔して俺を見た。
「えっ知らないです。なんの映画やるんですか?」
「うーん、忘れましたけど、でもビール飲みながら外で見る映画、なんだって面白くなりそうじゃないですか?松田さんも、時間あったらぜひ覗いてみてください」

今日の夜、新宿中央公園には、朝からアイスを食べ、クソ案件を午前中にきっちり片付け、野外上映会でビールを飲む、そんな水野さんがいるのだろう。
その光景が想像できそうで、でもうまく頭に浮かべることができなかった。

新宿中央公園ね。
今日の夜は特に飲みも入れてなくて、一昨日作ったカレーを消費しないとそろそろ危ないかも、それくらいのものだから。

「あ、アイスひとくち食べます?」
「いやいやいやいりませんよ、朝からアイスなんて」
「でもバナナ味ですよ」
「それ、朝ごはんっぽいからいいとか思ってたりします?」

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