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615 【短編小説】

吉祥寺駅北口の鳥貴族でしこたま飲んだ帰り道。
白い息を吐きながら、こいつは男と電話をはじめた。
無事に帰れるか、見守るためだけに後ろをひょこひょこついていく。なんと滑稽なことだろう。


昔々、自分でも思い出したくないほど昔、タバコを吸っていたことがあった。
そんなことを呟いたら、私もタバコ吸ってみたいだなんて酔った勢いで言われた。

若かりし自分はイキリにイキってピースの青箱を吸っていた。
今でも時々、コンビニ横の喫煙所で吸うこともあった。
でも、このあいだその喫煙所は撤去されてしまって、別に家で吸いたいわけでもなくて、持て余した残りを全部握りつぶして捨ててしまった。

こんなヤツに似合うタバコなんてあるのだろうか?と酒が微妙に回った頭で考える。


ベロベロのこいつを引きずって、近くのドンキへ赴いた。
タバコモドキのバニラフレーバーを買い与えてやることにしたからだ。
こんな、男と電話しなきゃ呼吸も出来ないようなガキには、ニコチンタール0で微妙なバニラの匂いのする煙がお似合いだ。
ほら、IQOSだぞ。なんて渡してやると、案の定、本物のタバコだと思い込んで、おいし〜なんて白いモヤを吐いていた。
もちろん、金は少し多くふんだくっておいた。


霞がかった井の頭公園を歩く。
息が白い。もう年末だから仕方ない。
エセタバコの煙と自分の息の区別もつかない。息の白さだけでタバコ欲は十分満たされてしまう。

「迷惑かけてごめんね」と甘ったるい声でスマホに囁く、その後ろを歩く。
エセタバコ、自分が選んだマンゴーフレーバーより、バニラの方がうまいな。
安っぽいキツいメンソールが、寒さも相まって肺に堪える。


公園を過ぎ、とろとろと眠る住宅街に差し掛かる。
赤信号を律儀に守っている姿に声を出さずに笑う。
今時、酔っ払いといえど赤信号は守って当たり前なのだ。


こいつは、一人暮らしのくせにガードが甘すぎて、昨日の夜中は無限ピンポンを食らったらしい。
オートロックが無かったら、今頃ここで千鳥足になることすらできなかっただろう。
流行りのSNSのコミュニティで男を食い漁っているような、陳腐な女によくある話。

「こういうの、モリサンにしか話せないよ」
さっきはサトーサンにしか話せないとか、1人しかリスナーのいなかったスペースで宣っていたくせに。先週はたしかメーチャンサンだったか。

それにしても気丈な声だ。
通話上では、ちょっと酔ってるけど何事もない、というように振る舞っているらしい。


でも、馬鹿みたいに税込350円のメガハイボールを飲んでいたから結構本気で酔っ払っていて、人目も気にせずデカい声でゲラゲラ笑いながら、それでいてストーカーに怯えて人様に家に着いてきてもらっている、この無様な姿を知っているのはわたししかいない。
電話の向こうの男どもは知らない。
知る由もない。


「タバコっておいしいよね〜モリサンってタバコ吸ったことある?」
一生そのエセタバコを吸っていろ。本物のタバコと思い込んだまま。


こいつのアパートが見えてくる。
わたしはこいつの家の部屋番号すら知らない。

今度こそは家に招き入れてくれないかと思う。
でも家が汚いからといつも断られる。
今日も部屋番号を知らされないまま、わたしはひとり帰る。

終電が近い。ひとりで深夜歩くことのおそろしさを、あなたは十分に知っているだろうに。


中央総武線は今日も遅れていた。きっと明日も遅れているのだろう。なんのアナウンスもないままに。
別にそれでいい、ただ無事にわたしを家に送り届けてくれさえすれば。

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