◆強さ際立つ「銀色の弾丸」 ◆大分国際車いすマラソン
1週間前の天気予報に出ていた傘のイラストが、一昨日には雲に変わっていた。天気は回復する方向にあり、明日は雨に見舞われずに済みそうだ。
車いすマラソンの好記録が生まれる条件の一つは、雨や風などがない気象条件に恵まれることだろう。雨で路面が濡れると車輪が転がりにくくなり、陸上競技用の車いす(レーサー)のスピードは上がりにくい。その分、漕ぐ力が必要になり、選手は体力を消耗する。向かい風や横からの風が強い場合も、それに抵抗するように走らなくてはならず、その分、余計に力が要る。 大分市の気温は13度前後で、肌寒くはない。明日、マラソンを走るには比較的良い気象条件になりそうだ。
昨年、この大分で、男子車いすマラソンの世界新記録1時間17分47秒が誕生した。それまでの世界記録1時間20分14秒は、22年もの間、選手たちの前に高くそびえたつ壁になっていた。しかし、ついにその壁が突破され、さらに約2分30秒も縮められた。
2022年11月20日に開催される第41回大分国際車いすマラソン。 大会前日の午後15時からは、大分駅前にあるイベント会場で、招待選手の記者会見と開会式が予定されていた。会場には10メートルほどのステージと大型モニターが設置されている。入口で取材者であることを名乗り、検温と受付を済ませて、ステージの正面に用意されたメディア用の席に向かった。新聞記者や報道のカメラマンが十数人、すでに着席しており、テレビ映像用の大型カメラも準備している。
司会を務める女性アナウンサーが登場し、招待選手たちが檀上に招かれた。 短い髪に黒縁の眼鏡を掛けた丸い顔が小さく見えてしまうのは、胸板や肩周りが大きく腕が長いせいかもしれない。招待選手のなかでは最年少、米国のダニエル・ロマンチュク(24歳)が、明日のレースに向けた意気込みについて聞かれ、マイクを手にした。
「明日のレースはどんなことが起こるか予想できていないのですが、大分のコースはスピードコース、大変速いレース展開になると思います」
ロマンチュクは、マラソンの世界ランキング2位の選手だ。 車いすマラソンの主な国際大会としは、アボット・ワールドマラソンメジャーズの6大会(東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティ)があるが、ロマンチュクはこのうち、今年4月のボストンで優勝。また、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティは2位だった。
彼が「スピードコース」と口にしたのは、昨年、この大分で叩き出されたマラソンの世界記録を念頭に置いているからだろう。それまでの世界記録も大分で記録されたものだったが、昨年、コースの一部変更があり、さらに直線が多いコースになった。
曲がり角や道幅が狭いコースは接触の危険性があるため、減速して走る必要があるが、長い直線は加速したまま突っ走ることができる。大分はスピードを出せるコースであることは多くの選手が念頭に置いていることだろうが、世界トップクラスの選手が口にすると、明日、世界記録更新を狙う走りをするのかもしれないと期待が増した。
「コンディションとしては万全の状態で来ています。でも、レースの展開としては、強すぎる彼らにどこまでついていけるか。明日の天候もあるので、このタイムということは言えないのですが、ベストを尽くして頑張りたいと思います」
車いすマラソンの日本記録保持者、鈴木朋樹(28歳)はまっすぐに前を見て、そう口にした。鈴木は、今年のマラソンメジャーシリーズ6大会のうち、3月の東京マラソン(2021大会)で2位、10月のロンドンマラソンで4位に入った。日本人選手の中ではトップだった。
鈴木は笑顔ではないが、緊張しているふうでもない。今年のマラソンの成績から見ると、大分に招かれた海外招待選手2人の実力は鈴木を上回ると言えそうだ。「どこまでついていけるか」という彼の言葉にも、海外招待選手が速いスピードでレースを展開することを想定していることが伺える。その想定を踏まえて「万全の状態」と言うからには、鈴木はハイスピードに付いていく準備をしてきたのだろう。
車いすマラソンは、力が拮抗する複数の選手が1列になり、先頭を交代しながら走るローテーションをするとスピードが上がり、そのスピードを維持して走り続けることができる。先頭を走る時には風を身体に受けるが、複数人で先頭を交代すれば列の後方で走る時には、前を走る選手を風よけにすることができ、一人で走る場合よりも疲労が軽減される。ただし、ローテーションは、選手たちの力がある程度同じでなければ成り立たない。
今年の大分で好記録が生まれる条件を挙げるとしたら、気象条件に加えて、有力選手が複数人で先頭集団を形成し、42.195キロの終盤までローテーションして走ることだろう。
世界新記録が生まれた昨年は、先頭集団が2人だった。ローテーションはなく、先頭の選手が終始、前を引っ張る展開になった。快晴でほぼ無風という好天に恵まれたことで、ローテーションなしでも世界記録が更新された。 今年は有力選手が3人出場している。彼らが先頭集団を形成し、終盤までローテーションして走るような展開になれば、再び世界記録を塗り替えるかもしれない。
11月20日、午前9時すぎ。
空は曇に覆われているが、雨が降り出しそうな気配はない。
スタート地点となっている大分県庁前に向かうと、向いにある大分城址公園のお堀に沿って、のぼり旗が並んで立てられていた。一つひとつの旗の中央は白抜きになっており、色とりどりのペンで「ゴールまで走り抜け」「ファイト」などのメッセージが書かれている。これらの旗をなびかせるような風は吹いていない。
城址公園の西側に設けられたウォーミングアップ用のコースでは、車いすの選手が軽く流すように走っている。大分国際車いすマラソンは、パラリンピックの代表選手になるようなランナーだけでなく、いわゆる市民ランナーが全国各地から多数、出場している。今年の出場者数は、マラソンとハーフマラソンあわせて150人近くになるそうだ。
赤や黄、青、黒、色とりどりのトレーニングウェアを身に着けた選手たちがウォーミングアップコースの直線で、レーサーの漕ぎ手をグッ、グッ、グッと素早く押し出し、スピードを上げている。その動作は、足で走る選手が太ももを素早く上げ下ろしする動作を思い出させた。すでに体が温まったのか、選手の一人がレーサーをコースの端に寄せて止め、ウインドブレーカーを脱ぎ始めた。
スタートラインに選手たちが整列し始めた。 銀色のヘルメットがトレードマークとなっており、「銀色の弾丸」というニックネームが付けられているスイスのマルセル フグ(36歳)が最前列にいる。
「シーズン最後のレースを、よい結果がのこせるように頑張りたいです」
今シーズン、フグはワールドメジャーマラソンシリーズ6大会のうち、3月の東京、9月のベルリン、10月2日のロンドンと同月9日のシカゴ、さらに11月6日のニューヨークシティに出場し、これらすべてで優勝した。マラソンの世界ランキングは当然1位だ。
彼は昨年、この大分で世界新記録を叩きだした。昨日の会見では、レース展開は天候に依ると言っていたが、雨天は避けられそうになった今、彼は何を考えているだろう。自身が持つ世界記録を頭の中にセットして、それを上回るペース配分を計算したりしているのだろうか。
午前10時、号砲が鳴った。
沿道に並ぶ観客たちの目の前を、鈴木が真っ先に飛び出した。ロマンチュクとフグがすぐに後を追っていく。3選手の背中は、あっという間に小さくなっていった。
序盤のコースはカタカナの「コ」の字のようになっており、選手たちは2度左折する。2つ目の左折の後、大分川に掛かる弁天大橋を渡ったところが5キロ地点だ。スタートを見送った後、沿道で選手たちが走る模様を見るには、別府湾に沿って東西に伸びている広い通りに出るしかない。沿道に立っていた数人が、大分県庁を背にして路地に入り、次の観戦ポイントを目指して走り始めた。私もその一人だ。スマートフォンのラジオアプリは、地元ラジオ局による実況中継にあわせている。イヤホンを耳に入れると、気象条件を伝える男性アナウンサーの声が明るく響いてきた。
「ダニエルが遅かったから、前に出た」
5キロ手前、先頭を走っていた3選手の中からフグが抜け出し、ダニエル・ロマンチュクと鈴木を大きく引き離した。フグ自身が前に出ようと狙って仕掛けたわけではなかった。ロマンチュクのスピードが遅かったため、自分のペースで走るために前に出たのだという。そして、ロマンチュクと鈴木はフグのスピードに付いていくことができなかった。
終盤まで三つ巴の戦いが展開されたら、面白いレースになる。
そんな期待は、号砲が鳴った午前10時から10分も経たないうちに一気に消えた。フグが他の有力選手2人を序盤で振り落としてしまう、圧倒的なスピードを見せつけたのだ。
ほぼ無風に近かった昨年と比べ、今年はやや風があった。その風の抵抗を体に受けながらも、フグは単独でゴールまで走り切った。記録は1時間21分10。2年連続の世界記録更新はならなかったが、2位とは3分34秒の差をつけた。
銀色の弾丸、マルセル フグは、スピードにさらに磨きをかけていた。現時点では、他の選手を誰も寄せ付けない。車いすマラソン・男子の王者は当面、その座を他の誰にも譲りそうにない。
(取材・執筆:河原レイカ)
(写真提供:小川和行)
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