パラリアの3次会 第3夜
前回の復習ー木元の3区分
前回前々回で、木元はケア/しつけ/教育の3区分を提示しました。
「ケア」:「いていいんだよ!」という安心感を与える
ケアとは、根源的な次元で子供を生存可能にする営み、たとえば食事を与える、愛されていることを示すために抱きしめるといったことです。このような営みは、子供を「肯定する」活動として特徴付けられます。
「しつけ」:「しちゃいけないこと」を教える
しつけとは子供を社会のメンバーに組み入れる営みで、たとえば、「電車のなかでは騒いでいけない」と叱ることや、「人のものを勝手にもっていってはいけない」と諭すことがこれに分類されます。私たちの社会には、「してはいけない」ことがたくさんあります。それを教えるのがしつけです。この種の活動の特徴は「してはいけない」という形式で知識を授けることです。言い換えれば「ケア」において子供は全面的に肯定されますが、しかし「しつけ」において子供ははじめて否定されます。
「教育」:「できること」を授ける
しかし、我々の社会は「してはいけない」ことだけでできているわけではありません。つまり、「してはいけないこと」を犯さなければ、それでよいというわけではありません。私たちには、単に悪いことを犯さないことだけでなく、「良いこと」を行うことが求められています。そうした能力を身につけさせるのが、木元の定義する「教育」です。
オギタによる批判ー「役に立つ」ってなんだ?
これに対し、今回はオギタによるその批判がなされます。木元のいう「教育」は、言い換えれば、社会に対して「役立つ」ことを目指すものです。ところで、「役立つ」とは実際どのようなことでしょうか。たとえば、何かを切りたいとき、他になにも道具がなければ、ナイフの「役立つ度」は非常に高く評価されるでしょう。これに対し、スープを飲みたいとき、ナイフの「役立つ度」はゼロで、今度はスプーンの「役立つ度」が高く評価されるでしょう。このように、あるものが「役立つ」ということは、そのもの単独ではなく、関係のなかではじめて決まると考えることができます。
教育って、そういうものだったっけ?
オギタはつづけて、教育の場面を実際に想像してみると、そこで行われているのは、具体的な関係を想定してそこで役立つことを目指すものではなく、階段を一歩一歩のぼるように、一元的な尺度のなかで自分のレベルを上げていく作業なのではないかと言います。まとめていえば、教育の実態と、木元の定義する「教育」のズレを指摘します。
木元による応答ー先生たちは、いろいろ考えてたんじゃない?
この批判に対し、木元はそのズレは、教育をする側と教育される側の視点の違いに過ぎないと言います。教育する側は、具体的な場面を想定し「これを身につければ社会に対して〈役立つ〉」と思いながらカリキュラムを設定しています。しかし、教育される側が直接体験するのは、そのカリキュラムに基づいた教科書を読み、用語を覚え、テストを受け、といった作業です。この結果として、オギタが指摘したような「一元的な尺度のなかで自分のレベルをあげていく」感覚が生み出されると考えられます。
そんなこと可能なの?
この応答に対して、オギタは再批判を行います。教育をする側は、たしかに「これを身につければ社会に対して〈役立つ〉」と思いながらカリキュラムを設定しているのかもしれません。しかし本当にそんなことは可能なのでしょうか。この社会には、多種多様な人がいるし、社会のあり方自体もどんどん変わっていきます。20年後に社会にでる子どもたちに対して、20年後の社会で必要とされる能力を身に付けさせることなど可能なのでしょうか。
これまでの教育は、「役に立つ」ためのものだったの?
さらに、私たちの受けてきた教育は、本当に社会に対して「役立つ」人材の育成を意図して設計されていたのでしょうか。
次回以降に向けて
次回以降語られるのは、教育制度の歴史的検討です。もし、教育が社会に対して「役立つ」能力をはぐくむものだとするならば、そこには、1.その社会の本質を把握し、その本質に基づいて2.その社会で求められている能力を同定するというプロセスが含まれているはずです。このような想定に基づき、現在の教育制度がどのような社会を想定し、どのような能力を養成しようとしているのかを考えていきます。
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