推して推して文化への違和感の元を探る

「好きな作品や人は必ず推して! いいねもいいけどリツイートして回して! じゃないと無くなっちゃうから!」
……みたいなツイートをツイッターでよく見かける。
リツイートしているのは創作しているようなプロ本人だったり、アマチュアでもなんらかの表現者だったりすることが多いから、おそらく共感してリツイートする人が多いのだろうとも思う。
しかし、私はこの風潮があんまり好きではない。なんとなく違和感を持つ。何故だろうか。少し考えてみる。
(7/2追記:ちょっと後に、はてなの感想屋がバズったり、「感想屋」を自ら名乗るサービスがバズったりしているのでそうそうこの流れの元になるのは、表現者がファンの感想を欲しがる風潮にもあるよね? と思ったので、感想屋タグを追加してみた)

まずは、自分自身の個人的な考えの三つから考える。

馴れ合いを好まないロム専の視点から

馴れ合いが嫌い、というよりネットで馴れ合わない人の方が好きである。
「馴れ合いが苦手な人」であることも多い。
馴れ合わず、「一人で黙々と考えている」人が好きだ。
ネットを介さないと、その「黙々と考えている人」「考えている内容」は観測出来ない。

リアルでは人の考えていることは分からない。会話で引き出すことは出来るかもしれないが、そもそも私のような会話の苦手な人間には引き出せないし、会話は相手がいて成り立つことなので、「考えている内容」はどうしても相手を意識した形になる。
ネットでは、その縛りが外れる。相手を想定しない独り言を好きなだけ流せる。

だから、かつてロム専としての私は、人のブログを読んだり、日記メルマガ、日記掲示板を読むのが好きだった。全く知らない人(むしろ知らない人の方が良かった)の、何らかの拘りを持っていて、時に鬱屈とした心の動きを見るのが好きだった。
しかし、ある時、馴れ合いが発生して以降は、そのブログや日記が急速につまらなくなることがあるのである。
表現者が「見える」位置に適当に置いた独り言を、勝手にこっちから見に行っていたのが、表現者が馴れ合い相手に「見られる」ことを意識したために、「見せる」ものになってしまうのだ。
長文ぎっしりだったブログが、改行多めの返レスだらけになる、相互紹介で他人のメルマガの宣伝ばかり流すようになる、特定の人物との会話だけになる、鬱話をしなくなる……。
だから、インターネットでの馴れ合いは好きではない。
リツイートとかいいねは承認のし合い、であり、言ってしまえば馴れ合いである。苦手な馴れ合い感があるから、歓迎しないのかもしれない。

ツイッタラーとしての視点から

自分でも、なるべく見られていることを悟られたくない気持ちがあり、アクセスカウンターとか、ミクシィの足跡制度とか嫌だなーと思っていた。
ツイッターに関しては、「フォロー=一度だけ足跡をつけること」と認識して、大量無差別フォローのふりをして、フォローを進めた。(ツイッターの仕様が変わってフォロー通知とかいちいち行くのも改悪だと思っている)
フォロー数が三桁くらいあると、三桁中の一人でしかないと、相手に安心させることも出来るし、実際ストーカーは複数を対象にしているし、比較的気楽だった。

まあ、そんな感じでフォローしてストーカー出来たとしても、面白い人に限っていつの間にかふらっとアカウントを消して消息が分からなくなったりすることが多い。フォローせずリストでストーカーしたらしたでいつの間にか鍵をかけていて追えなくなる。
馴れ合わない人(≒推して推してって言わない人)はいなくなりやすい。
で、似たような雰囲気の人を今、探しに行こうとしても、今や馴れ合い系に埋もれて検索性が悪くなっていたりする……。「見せる」ツイートじゃなくて「見える」ツイートが見たいのに、「見せる」ツイートだらけになってしまった。リツイート機能が、宣伝に使われて、「見せる」ことをどんどん煽っている。

だから、「リツイートしてね!」が苦手に思うのかもしれない。

(脱線するけど、私はツイッターで起こるいざこざ、クソリプだとか炎上のほとんどは、ツイッター自体の「見せる化」に特化していった改変のせいだと常々思っている。リツイート機能そのものが今は悪に近い。詳しくはこの記事で)


創作する視点から

さっき、

リアルでは人の考えていることは分からない。会話で引き出すことは出来るかもしれないが、そもそも私のような会話の苦手な人間には引き出せないし、会話は相手がいて成り立つことなので、「考えている内容」はどうしても相手を意識した形になる。

と書いたが、リアルの中にも例外がある。「読書」だ。本は、一方的に相手の考えていることを教えてくれる。しかも、字だから、話し言葉のように消えてなくならない。これは、会話の苦手な私にとってはありがたい。

小学生の頃、ほとんど喋らなかった私は、「本が友達」と言われるほど読書に夢中だった。でも、「本」自体に人格を感じるわけではない(無機物に対しての脳内会話はしていたが、本は本である)し、「本」そのものが好きかと言われると、アニメ等でも別に構わないし、学校でフィクションを摂取出来る媒体が本だったというだけである。
よく、「本が好きで人間が嫌いという人は、本が人間の書いたものだということを忘れている」みたいな揶揄があるが、本は人間の気持ちを加工したものであって、人間そのものではないから触れられるというところもあるだろうと反論したい。(いや、私が人間嫌いというわけではないが)

で、私は一応小説家志望なのだが、自分の作品を「なるべく多くの読者に届けたい」とは思っていない。
私が思う想定読者は、「友達がいない人」である。友達のいない人に、友達がいなくても良いということを伝えたい。……というのがテーマの一つである。私のような会話の苦手な人へ、と。
別に私の作品関係なく、「読書」全般に話を広げても、友達に恵まれている人は、別に本を読まなくていい。コミュニケーション力を使って学びや遊びを得ればいい。……と、極論、そう思っている。(友達の多い人でも、ふとした隙間の孤独は発生するということでご勘弁を)たとえば図書館をコミュニケーションの場として開いていくことは、孤独に本と向き合いたい人を遠ざけはしないかと立ち止まりたくなる。物言わぬ孤独な人を優先したさがある。
ということで、私の想定読者は、「表に出れない」そして、「読んでいても気軽に推せない」性質を持っている、と仮定する。
私は推さないままの、姿を現さないあなたをも、肯定する。

そういうことで「絶対推して推してー」の文化がちょっと違うな、と思ったのだろうか。

ともかく、この三つが、私の個人的違和感の元となっている、と思う。ぼっちを拗らせたが故の感触なのだろうか、でも、私はそういう拗らせている他人が好きでもあるから困るわけ。

「推し」という行為が起こる関係は、三角関係である

さて、ここからは勝手に私以外の視点を想像して客観的に「推して推して文化への違和感」を探る。
「推し」とは、表現者とファンの二者間、ファンとそのファンを観測する者の二者間の関係性を繋げた三者間の関係で起こる。三者間の関係、つまりはある意味三角関係だ。三角関係の構造だから、難しくなるし違和感が出るのだ。

Aという人物がファンに対して「ファンなら自分を推してくれ」という。ファンのうちのBがフォロワーに対して推す。フォロワーのCがその情報を受け取る……という構図があるとしよう。

・BはAを独り占めにしたいから、別にCに推したくない。いわゆる同担拒否である。
・BはCに推すが、推すという行為は自発的なものであって、A本人に言われるのは違う、公式はこちらに媚びないでほしい。
・Bにはそもそも推す相手Cが存在しないからAの望みを達成出来ない。
・Cは好みではないものをBに推してほしくない。

ほらー、ややこしい。モヤモヤの種はいっぱいである。

まとめ

……と、いうわけで違和感の元を個人的に・構造的に、あれこれ並び立ててみた。考え中のことなので、今後印象は変わっていくだろうが、今現時点での個人的な違和感を文章化したまでである。
違和感を説明したからと言って、別に「推して推して文化」はなくなるべきと思っているわけではない。というか、現状だと仕方がない。
推して推して文化の大本にある、「推されないと埋もれる文化」はどうにかした方がいいんじゃないかとは思うけどね……。

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