暴走車両への向き合い方
こうした「暴れん坊」が、学問の世界にはチョコチョコといらっしゃいます。東大の三浦教授もその一人ですね。
そうしたとき、「こんな酷いことを言う人が教授をやるのは許されない。辞職すべきだ」という意見と、「いやいや、学問の自由は守られるべきだ」という意見とが、ぶつかり合うことになります。「表現の自由」でも、同様の問題がおきることがありますよね。
さて、「学問の自由」についての私見です。
かつて(10年ほど前)日本の某仏教系の大学の教授の方で、身内の方が殺人事件を犯してしまった方がいらっしゃいました。
その教授ご自身は、刑法で裁かれるようなことをしていません。
しかしながら、結局、「教授の辞職」ということになりました。
この判断を聞いて、「いやいや、学問の自由なんだから、教職に残ればいいのに」、と考える人は、おそらく、少数派かと思います。
学問の自由と言っても、それによって傷つけられてしまう人や集団(とくに、攻撃に抗えないような人たち)が生じる・生じうる場合、そこには学問の自由とは別の倫理が働くように思います。
そして、実際に辞職させるかどうかは、その大学やその人が何をどれだけ期待されており、また、どれだけの影響力をもつのか、といったことが、総合的に考慮されて判断されるのでしょう。
もしもその人の発信力が強い場合は、正攻法(→学問や宗教の世界では、学問的・神学的に反論すること)をしているうちに、どんどん被害者が発生してしまいます。よって、そういう暴走車両に対しては、まずは力でねじ伏せるということも必要、⋯というのはたしかヒトラーに対峙した際の神学者ボンヘッファーの思想でしたっけ。
個人的には正攻法でいきたいのですが、昨今のネットやSNSなんかを見る限り、思い込みが激しかったり、読解力がなかったり、単に怒りを発散させているだけの人が多いのも事実であり、痛感するところです。
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