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【オスマン帝国と男色】スルタンに配慮したイスラーム法学者(?)

トランスの話ではないのですが、「LGBT」のうち、主に「ゲイ」に分類される話です。

⋯といっても、近代的な「ゲイ」ではなく、信長=蘭丸のような関係の話です。主君と「小姓(こしょう)」ですね。「男色」と言ってもいいかもしれません。

【2022年5月2日追記:イスラム法学では「婚外交渉」ゆえに男性同士のセックスを禁じるものの、「同性間の純愛」自体はいいともだめとも言わない、という説もあります。その点は留意して読み進めてみてください。】

1.信長=蘭丸のような関係

オスマン帝国が西洋にとって最も脅威な時代であった、それがスレイマン1世時代と言われます。ウイーン包囲が象徴的ですね。

スレイマン1世の側近にイブラヒム・パシャという人がいました。

スレイマン1世とイブラヒム・パシャは、「信長=蘭丸」のような関係にあったとされます。

イブラヒム・パシャは陰の存在だったわけではない。きわめて優秀な大宰相として、政治の前面で指揮をとっている。両者の関係は、マクブール(お気に入り)という当時の彼の渾名からもわかるように、恋愛関係と考えてまず間違いないだろう。オスマン帝国の支配層の間では、こうした同性間の感情・関係はごく普通のことと考えられており、あとでも触れるように特別なことではなかった。特別なのは、寵臣だったイブラヒム・パシャの有能さであり、政治の表舞台での活躍の方である。ただし、そのあまりの成功は多くの妬みと疑念を生み、最終的には彼の失脚、処刑という悲劇に結びつく。イブラヒム・パシャは妻としてスレイマンの妹、皇女ハティージェを得ている。 ー『興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和』(2008原本;2016文庫本:以下「林[2016]」と略し文庫本のページで:p121:太字は引用者、以下同様)

2.スルタンの時代、君主の「男色」はタブーとされなかった。

イスラーム法では、同性間、とくに男性同士の性向は、「やってはいけないこと」です。

なんといっても、クルアーン(=コーラン)に書いてあります。(松山先生らのイスラーム解説本などを読んでもすぐにわかると思います。)男性間の性向を行った者は、肛門に棒が突き刺されて云々⋯といったことが書かれています。

しかし、先の通り、スルタンが絶大な力をもっていた時代、君主が側近(小姓)と男色関係にあるのは、ごく普通のことだったようです。

イラン社会が同性愛を否定的に捉えず、詩や絵画にその様子が描かれてきたことはよく知られているが、オスマン帝国下の社会も、その点では同様であった。現在のトルコ文学研究の世界でもようやくタブーが緩み、少年の美や彼らへの愛を調った詩を「神への愛のレトリック」だという苦しい説明は、徐々に時代遅れのものになりつつある。ー林[2016:p270]
いつからか(おそらく一九世紀後半に始まる変化だろう)タブー視されることになるこうした関係や感情が認歌された時代に、オスマン詩の多くはつくられた。ー林[2016:p272]

イランもしかりですが、地中海の伝統とも言われますね。

3.スレイマン1世時代の法整備で、男色関係はノータッチだったのか

スレイマン1世は「立法者(カーヌーニー)」と呼ばれたように、法の整備をしたことが評価されています。イスラーム法と世俗法・慣習法との整合性などですね。

主に経済面・行政面から要請された法整備だったのかもしれません。

その方針は、オスマン帝国の諸制度をスンナ派イスラムの観点からみて問題のないものとして体系化する、という点に置かれていた。(略)ただし、こうした作業は、これまでの法慣習を変えるものではなかった。むしろ、現状を肯定するために、異論を封じる理論武装をした、といった方がよいだろう。ー林[2016:p145]

が、とはいえ、この「男色」関係はどのように整理されたのか、あるいはノータッチだったのか、気になりました。

法の中に描かれたオスマン帝国は当時の国家や社会のそのままの姿ではないが、のちのオスマン帝国の人々は、これがスレイマン一世の時代に実現していたと想定し、現実を「あるべき姿」からの逸脱ととらえがちだった。この視点は、スレイマン一世時代をオスマン帝国の頂点とするオスマン帝国の人々の歴史観の出発点になっていく。ー林[2016:p147]

なんといっても、東のシーア派帝国(=イラン)に対するスンニ派帝国、という意気込みもあったでしょうから。

スレイマン1世時代に「シェイヒュル・イスラーム(イスラームの最長老)」となり、実務面を担当したのが、エブッスード・エフェンディです。エブッスウード・エフェンディなどとも表記されます。

『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜 (Muhteşem Yüzyıl)』では、髭もじゃのかわいいおじいさんとして、お馴染みですね。

そこで、改めてエブッスード・エフェンディのファトワー集(=イスラーム的な見解)を斜め読みしてみましたが、「男色」にはとくに触れられていないように見えました。

先に述べた、イランや地中海の歴史的伝統もあって、イスラーム法学者としても、スルタンや宰相らのふるまいに反したファトワー(=イスラーム的見解)を出すことは意図的に避けられたとも考えられますね。

ただ、民間においては、原理主義的なウラマーもぽつぽついたのではないかとも予測されます(あくまで予測です)。たとえば、論点は関係ありませんが、五行の無意味さを説き「人間のふるまいはすべて神の意志」といった「本覚思想」のような考えを説いて宣教して処刑されたスーフィー「Ismail Masuki」がいたように。。

というわけで、近代以前のイスラーム法整備の一連の流れで、このような「私的な関係性」を制限するような動きはあったものなのか、今後も調べてみたいと思います。

ついでに、スレイマン1世とイブラヒム・パシャの私的な関係を「薄い本」にしたら、トルコではどのような反応が生じるのでしょうか。気になるところです。


補足.オスマン帝国と男色(別記事にするかもしれません)

トルコ語で同性愛は「eşcinsel」といいます。

また、オスマン語、すなわちアラビア語単語などがたくさん入ったオスマン帝国時代のトルコ語では、「lûtî」や「gulamperest」などと言われていたようです。性的関係はCinsi münâsebet、性的欲求cinsî arzuです。

オスマン帝国の「男色」について、トルコ語版のWikipediaもありました。

2代スルタンのオルハン・ガーズィの時代に始まり、ヨーロッパでもオスマン帝国の男色が有名だったようですね。「ムハンナス」(⋯なよなよした、にやけた、くらいの意味でしょうか)と呼ばれてしまった大宰相もいるようですね。

バルカン半島などからデヴシルメといって調達したイェニチェリ軍というのがオスマン帝国にありました。若いハンサムな男性も多かったと思いますので、戦争にあけくれたスレイマン1世の前半の時代などには、とりわけ戦時にあって必要とされた私的な関係性かもしれません。命の危険があると、子孫を残さないといけないという性欲が活発化するともいわれ、それに吊り橋効果も加わるとなれば―


補足.エブッスード・エフェンディについて

日本語での紹介では、林佳世子先生の「興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和」のほか、大河原知樹・堀江聡江両氏(敬称略)の「イスラーム法の『変容』近代との邂逅」などがございます。


トップ画像は、2012年4月12日のイスタンブルです。


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